2025年4月6日日曜日

三池の絵葉書から⑦ 四ツ山駅

マイコレクションから、今回は四ツ山坑の絵葉書🐱「北方より見たる四ツ山坑 Yotsuyama mine」山田屋本店撮影です。四ツ山坑絵葉書は東西南北の視点から豊富に発行されましたので、何度か取り上げていくことになるでしょう。

四ツ山坑は、揚炭坑口としては万田坑に次いで開鑿されました。第一立坑が1918(T7)年に開鑿に着手され1920(T9)年に着炭、1923(T12)年3月より操業を開始しています。『鉱業所沿革史』によれば、開坑の理由および目的として「主として海底の採炭および入気坑として三池港南方四ツ山の西麓海岸に新しく立坑を開鑿することとなったのが四ツ山立坑である」とあります。万田・宮浦の両坑道が西へと延びるつれて、万田坑は大断層にぶつかったこと、また宮浦坑については坑道距離が延びて、坑内環境の悪化により採炭効率が悪化していたこともあり、当時の海岸線ぎりぎりの場所に新規に開鑿されました。

絵葉書の中央に聳えるのは四ツ山第一立坑、坑口の直上に巻揚機を据えた立坑櫓は”タワーマシン(Tower Machine)”型と呼ばれます。鉄筋コンクリート製の櫓は152フィート10インチ(約47m)の高さがありました。四ツ山坑のシンボルとなる建造物です。絵葉書では分かり難いのですが、右手はすぐに海岸線、左手に少しだけ見える斜面は二頭山(四ツ山)の山裾です。海岸は選炭場からのボタ(硬)捨て場として次第に埋め立てられて、大島貯炭場や四ツ山社宅となりました。
ちなみに万田坑のような地上に巻揚機を設置したタイプは”グランドマシン(Grand Machine)”型です。絵葉書では第一坑に隠れていますが、第二立坑はグランドマシン型となっています。


写真は北側からの撮影なので、三池港船渠を背にして線路は手前が四山支線の終端側になります。四山支線は1923(T12)年3月開通、電化竣工も同日としており、これは四ツ山坑の開坑日と期日を合わせています。『鉱業所沿革史』に「鉄道の連絡少しく不便なり」と記されているように、 三池本線からの分岐線となっており、選炭場近くに四ツ山駅を設置しました。絵葉書では選炭場の向こう側に駅務所が設けられています。


絵葉書からは離れますが、三池鉄道には四ツ山駅を名乗った駅は3回登場しています。以下に簡単に整理してみました。
①四ツ山駅(Ⅰ)→1920(T9)年5月港駅に改称
②四ツ山坑開坑にともない1923(T12)年3月四ツ山駅(Ⅱ)を設置→1954(S29)年1月廃止
③1926(T15)年5月大島駅を設置→四ツ山駅(Ⅲ)?

四山支線の四ツ山駅(Ⅱ)から、三池本線の四ツ山駅(Ⅲ)(←旧大島駅?)の改称時期が不明です。

2025年3月31日月曜日

デ3号電源車⑤

デ3号電源車を観察する5回目🐱

デ形のうち、機器更新されたのはデ3号のみだったため、該機になんらかのトラブルがあったのではと推測しましたが、『電源車履歴簿』(*1)を確認したところ、これは事実でした(当時、現地でもそれらしい話は聞いていました)。2005(H17)3月、架線充電中にショートにより大きく焼損し、現地では修理不可と判断されて機器類はM島電機製作所に送られたことが記されています。機器更新後、現場復帰するのは2009(H21)年2月からと、おもわぬ長期離脱でした。

また、デ3号の離脱によって車両のやりくりが逼迫し、たまたま新品に載せ替えたばかりだったデ3号の蓄電池をデ1デ4号に回すなどの対応に追われたことが記録されています。下の写真に見られるように、全般検査17-1(→2017-1)からまもなくの事故だったことが分かります。復帰から2年以上経っても機器箱だけが色鮮やか。


デザイン的には20トン電車との一体感は無くなり、趣味としては好き嫌いが分かれそうですが、2009年以降は通常のローテーションに戻ったため、稼働中の姿はたびたび目撃できました。せっかくなので下回りの写真を追加しておきましょう。

1位から3位の床下に引かれていた”鉄管”ですが、これは床下に吊るされていた充電抵抗器の短絡線(の名残り)ではないかと推測しています。充電抵抗器は架線電圧を充電電圧に下げるための機器です。先述の『電源車履歴簿』によれば、三池港駅で充電する場合、宮浦駅に比べて架線電圧が低くて不具合があるため、その対策として幾つかの抵抗器を経由しないための短絡線(および短絡スイッチ)を後付けにて設置したことが記されています。




(*1)炭鉱電車保存会所有

2025年3月23日日曜日

デ3号電源車④

特徴あるデ3号電源車の4回目🐱デ1号4号には見られなかった装備を取り上げます。

デ3号の後位は20トン電車との連結面になるため、単独での姿は貴重だと思います。写真は宮浦庫の前でデ1号と留置中のシーン(11号と12号電車は修理中)。妻面左隅に警告ランプ(赤=故障、橙=蓄電池容量低下)がありました。位置的に運転室から見えるようになっていると思われます。




デ3号独自の装備としてはもうひとつ。機器箱の側面に小扉があり、地上から操作する機器が収まっています。写真はその操作中の一コマ。アップにすると何となくわかるのですが、ボタン(ないしランプ)が縦に赤緑黄の順で並んでいます。


この機器については、いまのところ用途は不明です。何らかのモード変更か、ONOFFを切り替えているように見えますが、デ1デ4号には見られない操作です。

デ3号電源車③

私事。先日(2025.3.9)に 万田坑の炭鉱電車を見て来ました🐱
この日はちょうど万田坑スプリングフェスタの開催日にあたり、出店やイベントなどで賑わっていました。おもえば、前年2024年3月10日のフェスタで12号18号電車のお披露目が行われ、4月14日から始まった12号電車の定期運転は間もなく1年を迎えます。”電気機関車の動態保存”というハードルを越えて、安定運転を続けてきた関係者の方には感謝の思いが尽きません。
今回のフェスタでは、電源車の中身(;゚Д゚)がクイズとなっていましたので、親子連れの見学者が次々と訪れていました。18号の運転室も行列が出来るほどの盛況。今後も”荒尾市のお宝”として炭鉱電車を使ったイベントが企画されることが期待できますね。荒尾市で”炭鉱電車でこんなことがしたい”という企画募集をしてみてはいかがでしょうか。

デ3号電源車の3回目。今回はデ3号の細部を観察してみます。


デ形は浜側(→貨車を連結する側)を前位とします。右側面はラストランイベントからで、当日は絶好の日和でした。電池箱は他号車と変わりありませんが、キュービックな機器箱と、すっきりとした床下が特徴です。また更新前と比べると、妻面1位側のステップは増設、逆に後位妻面のステップは撤去されたことが確認できます。

更新前のデ3号の姿(デ3号電源車②)




左側面は現役時代の写真から。こちらは側ブレーキのある側面です。よく見ると、てこ止め装置はラック式となっていますが、ピン穴がそのまま残っています。また、手すりの塗り分けがデ1号とは異なっています。


デ3号の特徴は機器箱に集約されます。機器箱は3分割されており、天盤は跳ね上げ、内扉は観音開きするようです。天盤は通風を兼ねているのか二重となっています。内扉は中扉に小、左扉に縦長の窓(ないし液晶?)があるのが気になりますが、いい写真を撮っていなかったので用途や詳細が不明なのは悔やまれます。また、機器箱に埋め込んだ銀色カバーが見えますが、これも何の機器だったのでしょう。
機器箱の後位妻面については、天蓋のヒンジと別付けの銀色カバーがかなり目立っています。これは別途で取り上げます。




デ3号の床下を覗きます。制動装置はデ形共通の直通空気ブレーキとなっており、装備としてはシリンダのみです。デ形のブレーキ装置については、すでにデ1号電源車⑧で取り上げました。
https://ushiyan-tantetsu.blogspot.com/2024/07/1.html




2025年3月2日日曜日

三池の絵葉書から⑥ 絵地図

マイコレクションから、今回は地図の絵葉書🐱絵地図ものもコレクターには人気あるアイテムです。三池炭鉱の場合、わたしの知るかぎりでは今回の大牟田全図のほかに、もうひとつ三池港全図もあり、いずれも豊富に流通しています。ただし、色塗りものだとコレクション的には珍しいように思います。
絵葉書には”停車場山田発行”とあり、大牟田荒尾の絵葉書を多数発行した山田商店から出ています。キャプションは「PUBLISHED BY YAMADA'S ŌMUTA STATION THE MAP OF MITSUI'S MIIKECOAL MINE AND MIIKE HARBOUR」とすべて英語。地図中も主だった施設にはカタカナに英語が振られています。絵葉書は、三池港に寄港した外国人船員たちの手軽な日本土産として販売されていたと思われ、今でも海外の古書サイトなどでしばしば見つかります。
地図をみると、三池港は開港していますが、坑口は大浦-宮浦-七浦-勝立-宮原-万田まで四ツ山がまだありません。タイトルは”大牟田町附近”ですが、大牟田は1917(T6)年に市制施行していますので、地図の情報としては1909(M42)~大正初め頃となると考えられます。


なかなか楽しい地図なので、いくつかズームアップしてみましょう。
大浦(ヲヲウラŌURA)坑と七浦(ナナウラNANAURA)坑の間には、”ROOPWAY”と書かれた点線が結ばれています。これは大浦坑の出炭を七浦坑の選炭場まで輸送するための坑外軌道線(軌間18インチ≒457ミリ)で、1899(M32)年に開通しました。エンドレスロープによる循環運転でしたが、1917(T6)年に電気機関車牽引に改変されています。絵葉書では”ROOP”とあるので、エンドレス軌道時代と分かります。


三池港は隙間なく描きこまれていて拘りを感じます。特徴である閘門(コヲモンWATER GATE)や船積機(フネツミキLODING MACHINES)も見えます。開港当初の港湾事務は船渠南側に集中していました。つぶさに見ると港務部(コヲムブHARBOR DEPARTMAENT←綴りは誤り)となっていますが、実際には1909(M42)年に港務所に改称されています。クラブ(CLUB)とあるのは三池港倶楽部ですが、高級船員向けの接待所でした。


今となっては残っていない地名も多く見つかります。大牟田川河口の”スノハナ”や”ヨコズ”はもはや通じないのでは。絵葉書中央の”片平山”も地図上には記されることが無くなりましたが、今の延命公園の一帯です。山頂には大牟田を見渡すことができる展望所があります(戦時中は高射砲陣地があったという)。

2025年2月27日木曜日

デ3号電源車②

更新前のデ3号は三井石炭鉱業専用鉄道時代に撮っていました。機器箱や床下はデ1号4号と違いはありませんが、矢印の箇所に鉄管が引き通されているのがデ3号のみに見られる特徴です。見た目は電線管のように見えますが、さて何でしょう。更新後は2位側の鉄管は撤去されています。



中央の蓄電池箱にある三井マーク、アクセントとして好ましく感じられます。この社章は三井化学専用鉄道となってからも使われていましたが、2004年に新社章が制定され、しばらくするとデ形の表記は消されてしまいました。これは他号車も同様でした。

デ1号電源車④


上の写真は、三池港駅の施設課車両工場にて整備中のデ3号です。開放された蓄電池箱からは濛々と湯気?が立っていました。前位妻面のステップは片側のみ、1位側に足掛けがありますが、おそらくデ形原型はこのようになっていたと思われます。更新後、妻面のステップが増設されました。
デ3号の観察は続けます。

2025年2月24日月曜日

デ3号電源車①

電源車デ形はデ1~4号が製造されましたが、鉄道廃止時にはデ2号を除く3両が残っていました。このうち、デ3号のみ機器の更新が行われ、外観的には機器箱の形態が変化し、床下機器が無くなるなどの特徴が見られます。以下、デ3号の最終的な姿をあげてみました。



機器類は明らかに新しくなったため、てっきり保存対象になるのではと予想していましたが、一番車齢の古いデ1号が保存されたのは意外でした。写真は保守運転の最終日、車庫内入換のために出てきたシーンです。おそらくデ3号+11号電車の最後のバッテリー走行だと思います。


2023(R5)年8月に僚機デ4号とともに現地解体されたため、今となっては更新の具体的内容が不明なのは残念至極です。結局、更新工事は1両のみにとどまったため、経年による機器交換ではなく、損傷レベルの大きなトラブルがデ3号に起こったのではないかとも考えられますが、まったくの推測に過ぎません。旧態と比べると外部表示灯やスイッチ類が加わったことが確認できるので、電気構造的にも変更されていたものと思われます。
ところで更新工事はいつ頃施行されたのでしょうか。わたしの撮影写真では特定できませんでしたので、こころみに宮浦ウオッチャーだったUTXCさんのブログ(『眠れないマクラギを数えて』)の過去記事を遡ると、2009(H21)年7月ではすでに更新されたデ3号が撮影されていました。もっと広く検索すれば、ある程度は絞り込めるかもしれませんが、手間はかかりそう。とりあへずは三井化学専用鉄道以降(1997年~)の可能性が高いように思われます。
デ3号の記事は続けます。

2025年2月18日火曜日

電源車デ形について④

東芝社報「三井鉱山三池港務所電源車 新設計蓄電池を搭載」(*1)より、4回目。文中より気になる記事を摘み喰いします。写真は非電化区間の浅牟田町108号踏切をゆくデ4号+12号電車+コキ200(銀タンコ)。


電源車デ形での20トン電車の運転は、巷説では”化学薬品を扱う工場構内にて着火源となる架線からのスパーク(火花)を無くすため”として言及され、一番のアピールポイントなっています。引火性のある化学薬品を扱う工場構内(専門的には”爆発性雰囲気”という)において、”防爆”がレゾンデートルとなっているのですが、じつは文献(*1)には該当する記述がありません。

蒸気機関車の代替機の選択肢から、電源車導入に至った経緯については必ずしも明確ではありませんが、三池鉄道の既存環境が大きく後押ししたように思われます。すなわち、すでに入換用に適した小型電気機関車が複数台、かつ同型で在籍していたため、電源車という付随車新製が”コスト的”にもっとも優れていたということになります。電気機関車側は小改造で済むことも大きなメリットとなります。もし20トン電車がいなければ、おそらく内燃機関車か、必要ならば蓄電池機関車が登場していたのではないでしょうか。

このあたりの経緯については、電源車デ形について①でも触れました。

ところで、記事中に「防爆」の文言がまったくないという訳ではなく、一ヶ所その記述がみられますので引用しておきましょう。蓄電池の付属品として「防爆形排気せん。客先仕様では防爆の必要はないが充電中に水を分解して酸素と水素を発生するので、電池の付近で裸火を使用したりスパークを飛ばしたりすると爆発の危険性がある。よって潜水艦などに使用して実績のあるセラミック防爆形排気栓を使用し、爆発によって電池を壊したり、人命に危害を加えたりしないように安全性を重視した設計にした」とあります。鉛蓄電池は原理的に水素と酸素の発生が不可避なため、そのガスが溜まった電池槽内に火花が入らないような工夫が必要となり、一方、ガスそのものは安全に外気に拡散されます。蓄電池自体にこのような水素爆発の危険性があることはあまり言及されていませんでした。そういえば、三池港本庫の前にあった電源室(おそらく精製水等が保管)に、”火気厳禁”の看板が掛かっていたのは、このような理由があったように思われます。

(*1)鵜沢正治・山司房太郎「三井鉱山三池港務所電源車 新設計蓄電池を搭載」『東芝レビュー』1963(S38)年10月 東京芝浦電気発行

2025年2月10日月曜日

三池の絵葉書から⑤ 宮浦駅

マイコレクションから宮浦駅の絵葉書🐱
宮浦駅に1990年代まで姿を留めていた石炭ホッパーについては既に2回にまとめましたので、絵葉書から初代ホッパーを取り上げてみます。正しくは”選炭場”と呼ばれる炭鉱施設になり、宮浦駅石炭ホッパー②で取り上げた鉄筋コンクリート建屋の先代にあたります。


絵葉書は「三井三池宮の浦炭坑 Miyanoura Pit,Miike coal Mine」と題した一葉。YSと署名がありますが、これは山田商店の発行を示す略号で、山田商店(山田屋とも)は築町に本店、不知火町(大牟田駅前)に支店、それに大牟田駅待合室に売店があったようです。三池炭鉱との関係は不明ですが、もっとも多くの大牟田絵葉書を発行販売したと思われます。


撮影年代を特定できるものが少ないですが、1888(M21)年より操業を開始した第一立坑しか見えないこと(第二立坑は1919(T8)年開坑)、見える範囲の炭車は4トン車が主力となっていることから、明治後半から大正前半までの間と思われます。
選炭場の5線ある積込線には4トン炭車と8トン炭車が入線していますが、左側2線の入口はやや高くなっているものの、それ以外は炭車ギリギリの高さしかありません。4トン炭車の全高は1962ミリでしたので、おそらく一番低いものは2300ミリも無いのでは。ちなみに8トン炭車の全高は2248ミリです。宮浦坑は鉄道開業時以来の操業坑だったため、当初の4トン炭車の規格に合わせたと考えられますが、他の坑口(七浦・勝立・宮原)も同様でした。積込設備上の制約のため、大型炭車の導入が見送られていた経緯がありましたが、他坑口はそのまま閉坑していくなか、宮浦坑については大型炭車に対応した鉄筋コンクリート造りの選炭場を新築しています。

ところで、この絵葉書はコレクション的には珍しいものではないのですが、面白い”現象”を発見しましたので紹介します。下の絵葉書は「三井三池宮の浦炭坑 Miyanoura Coal Mine Miike」、津村写停車場山田発行(”写”は旧字、”津村”は撮影者か?)です。見ての通り、まったく同じ絵葉書なのですが、汽缶場の煙突が2本に!
じつは最初の絵葉書をよく見ると、横切る電線が途切れており、意図的に煙突1本を消去していました。おそらく下の絵葉書が写真原版のままなのでしょう。わざわざ煙突を消した理由は謎です。

2025年2月7日金曜日

宮浦駅石炭ホッパー②

 この記事は『HP炭鉄』からのサルベージ&リペアになります。

前記事 宮浦駅石炭ホッパー①
宮浦駅の石炭ホッパーをもうひとつ。趣味的にはホッパーと呼んでしまいますが、正しくは”選炭場”です。”せんたんじょう”ではなく、”せんたんば”。選炭とは、坑口から揚げられた原炭より岩石等(廃石、硬、三池では悪石と呼んだ)を取り除き、塊炭を篩分けしてその大きさから分級する作業工程です。
鉄筋コンクリート建ての大型施設でしたが、意外なほど記録された方は少ないような気がします。線路から離れてようやく全体が見渡せるほどで、大きさについての資料がありませんが、推定では線長方向は25メートル、奥行きは5線分なので16メートルほどではないかと思います。窓のある上層部分が選炭場にあたり、その下にホッパーと積込線という多層構造となっています。


下図は「15000屯出炭に対応する鉄道輸送とその施設」(*1)より「宮浦坑との接続関係略図」を引用したもの。原炭は塊炭、悪石、新粉炭、中塊、粉炭に篩分けられ、それぞれの積込線が引き込まれています。


三池炭鉱の選炭場の特徴とまで言えるかどうかは分かりませんが、坑口(三川坑をのぞく)にて選別された石炭は、そのまま直に炭車に積込む方式が取られて、ホッパーの貯炭容量はごく小規模になっています。『三池鉱業所沿革史』(*2)に「選炭機に於いて篩別された塊炭、小塊炭、粉炭等は夫々選炭機室下に敷設した各炭種別の運炭線によって直接大炭車に積込む装置となっており、僅かに「ホッパー」装置を有するのみで、従来各坑共貯炭炭槽の設備は有しない」とあります。文中の”大炭車”が鉄道線の炭車です。このような設備となった理由は記されていませんが、三池港や三池浜の貯炭場との距離が近く、鉄道線によって頻繁輸送が可能なため坑口側で貯炭する必要がなかったためと推測しています。

ホッパーに炭車がいない時もあるのではと心配になりますが、続けて解説されています。「万一大炭車切れした時等は坑口と選炭機間に実函の立函線を設けているので、長時間貨車切れをなす外は殆ど坑内の配函及び出炭には支障を生じない。又運輸課の手配宜敷を得て従来長時間に亘る大炭車の不足を生じたと云うことも殆どなかった」とあります。”函”とあるのが坑内から原炭を揚げてくる鉱車。ただし、宮浦坑独特の設備となりますが、大斜坑が1936(S11)年にベルトコンベア化されて連続的に揚炭されるようになったため、選炭場との間に一時的な原炭貯炭槽を設けています。上図で”原炭ホッパー”とあるのがそれです。
さらに、選炭場からコークス工場への原料炭(粉炭)送炭のためのベルトコンベアが分岐しているは宮浦坑の特徴です。このベルトコンベアは1969(S44)年の宮浦坑閉坑後も引き続き活用されることになりますが、これは別機会にまとめましょう。

下の写真は1年後。ホッパーの宮浦坑面から解体が始まり、3線分を残すのみ。宮浦坑跡地はこの後、煙突回りの一角が宮浦石炭記念公園(1996年11月開園)に、跡地の大部分は大牟田中央工業団地として企業誘致がされます。


完全解体後に宮浦石炭記念公園から見下ろしてみました。コンクリート屑や並べられたレイルが生々しいですが、これらも程なくして撤去されています。


(*1)『三池時報』三井鉱山三池鉱業所1962
(*2)機械編第13巻 三井鉱山1939

2025年1月22日水曜日

宮浦駅石炭ホッパー①

この記事は『HP炭鉄』からのサルベージ&リペアになります。

宮浦駅に石炭ホッパーが姿を留めていた頃の写真をまとめます🐱

1969(S44)年宮浦坑は三川坑との統合により閉坑となりましたが、宮浦石炭記念公園(大斜坑跡)の解説板によれば、1990(H2)年までは大斜坑(1923(T12)年開坑)にて人員や資材搬入が行なわれました。写真は1990年3月に撮った宮浦駅舎正面の光景です。崩れかかった坑外建屋が確認できますが、残念ながら宮浦坑側からは記録していなかったので、何の設備なのかは分かりません。


宮浦駅には2基の石炭ホッパーが残っていました。それぞれタイプが異なり、三池浜寄りには鉄骨組みの1線式ホッパー、万田寄りには鉄筋コンクリート製の5線式ホッパーが建っていました。まずは1線式ホッパーから見てみます。


足元の9号電車と比べると、ひょろっと背の高く好ましい形態です。線長は炭車2両分ぐらいのサイズでしょうか。ただし、わたしが見たときにはすでにホッパーへの給炭設備を失い、孤立したような状態でした。

まずホッパーのスペックですが、「15000屯出炭に対応する鉄道輸送とその施設」(*1)によれば「特粉」と称する粉炭が扱われ、1ピット(貯炭槽)容量50トン×3槽のホッパーとなっています。さらに『模景を歩く』(*2)にて、もっと近接して模型的な視点から紹介されており大いに参考になります。同著より三池鉱業所提出の概略図によれば、側面は12100ミリ(脚間はそれぞれ4050/4000/4050ミリ)、線路面径間3140ミリ、上部覆屋を含めた高さ14950ミリとなっています。積込口下端は地上3600ミリあり、セナ形炭車(=セラ1形/全高3070ミリ)への積込も可能。積込口は手動(錘式)で宮浦坑面に架台、両端に階段がありました。

ホッパーの三池浜側にある鉄骨で組まれた足場のようなものはベルトコンベア施設跡です。ベルトコンベアは宮浦坑(および打込ピットから)からコークス原料となる石炭(原料炭という)を送炭するための施設で、宮浦坑から操車場と宮浦駅舎の上空を越えて、三井コークスの精炭槽の間に架かっていました。ホッパーには、この本線ベルトから分岐したベルトコンベアが架かり、浜側側面には取付跡が残っていました。

続く。

(*1)『三池時報』三井鉱山三池鉱業所1962
(*2)ネコ・パブリッシング2003(改訂新版2018)

2025年1月12日日曜日

三池鉄道の炭車略史②

直近情報になりますが、ステーションゼロの2025年1月の公開日は1月25日と26日となりました。26日(日)は万田坑と同時運転日となります。以降、公開予定については公式インスタをチェックされたし。

本題。
三池鉄道線内にて使われた社形炭車についてまとめます。

前記事はこちらより🐱


炭車略史①にて炭車4形式(4~7~8~16トン)を通観しましたが、時代的には戦前編となりましたので、略史②は戦後編となります。戦中期については資料が乏しいですが、炭車については新形式が導入された形跡が見つかりませんでした。以下、時代背景的な推論になりますが、戦局悪化につれて三池港からの海上輸送が次第に困難となり、もっぱら大牟田荒尾経由の鉄道輸送にシフトしたためではないかと考えています。

戦後間もなくして炭車増備が再開されましたが、新製車ではなく、国鉄からの譲受車で賄われるようになったのが戦前期との大きな違いとなります。ただし、三池入線後に社内にて更新や修繕がその都度行われたため外観にヴァリエーションが生まれたほか、制動機に改造が加えられています。


10トン積炭車の登場(1947(S22)~)

10トン炭車は、国鉄(正しくは運輸省鉄道総局)セ50形10トン積石炭車を譲受してセ形としたグループです。国鉄では、1947(S22)年の「第一次貨車特別廃車」によって大量の老朽貨車や不良貨車を廃車としましたが、その一部は民間企業に払い下げられています。三池においてもセ50形のほか、無蓋車を大量に譲受しています。

セ形はセ1001号~から附番されました。セ形の詳細は不明点が多いのですが、番号体系からすると合計260両を越える両数となっています。竣工図表より、その履歴は3パターンが確認できます。
①国鉄セ50形→三池セヤ形として入線→セ形に改称改番
②国鉄セ50形→三池セ形
③三池セヤ形→増トン改造しセ形に編入

セ形は三池入線時ですでに老朽車だったこともあり廃車ペースは速く、昭和40年代までには大部分は廃車になっています。ただ1両、石炭車としての用途ではありませんでしたが、セ1026号が九電港発電所構内の作業用として残っていました(文献*1)。

(文献*1)『RAILFAN778号』「三井三池専用鉄道の車両6」に写真あり。

セヤ形炭車・セロ形炭車の連結器交換(1952(S27)

三池貨車は、開業当初より連環式連結器を採用してきましたが、戦後国鉄より大量の自動連結器車両が入線したことにより、ようやくながら社形車両の自動連結器交換がおこなわれました。その施行は1952(S27)年に竣工しています。このうち、セヤ形は改造車よりセヤ2001号~に改番されました。

15トン積炭車の登場(1958(S33)~)

15トン炭車は、国鉄セム1形15トン積石炭車を譲受してセコ形としたグループです。1958(S33)年より譲受を開始してセコ1号~より附番、1969(S44)年までの長期にわたり増備して合計325両となっています。導入途中、一部は屋根カバーを設けて燐鉱石ホッパー車(ホロ形)に改造されたのち、セコ形に復帰した車両があります。

戦後、次々と譲受車が入線したことにより、昭和40年代初頭の炭車はかなりのヴァリエーションとなっていました。参考までに1967(S42)年5月の在籍炭車は以下のようになっていました。この時点では両数的にはセコ形がおよそ半数を占めていましたが、車令的には戦前のセロ形のほうが若いため、この後の廃車ペースはセコ形が先になります。一方、セ形とセヤ形は終焉期ですね。

セロ形16トン積炭車 162両
セ形10トン積炭車  100両
セヤ形8トン積炭車  48両
セコ形15トン積炭車 286両 

17トン積炭車の登場(1975(S50)年~)

17トン炭車は、国鉄セラ1形17トン積石炭車を譲受、セナ形としたグループです。1975(S50)年より譲受を始め、セナ001号~を附番しました。国鉄の九州石炭輸送の終焉期にあたり、まとまった両数での譲受がおこなわれ、合計358両が増備されています。このうち、セナ291号~308号は元三井鉱山所有の私有貨車ホラ1形セメント17トン積ホッパー車となっており、炭箱形態が異なっていました。
セナ形は三池鉄道が最後に増備した炭車となり、1997(H9)年3月の閉山まで稼働しています。最終期はセナ形のみで編成が組まれ、火力発電所への燃料炭輸送が行われました。

2025年1月5日日曜日

単機の9号電車

 投稿間隔がずいぶん空いてしまった...ので、まずは近況を整理。

2024年11月3日(文化の日)は、ふたたび万田坑の12号電車、ステーションゼロの19号電車の同日運転となりました。それぞれ万田坑が「オータムフェスタ」、ステーションゼロが「炭鉱電車フェスタ」として入場無料のイベントを開催しています。SNS等でのリポートをみると、とくに初開催となった炭鉱電車フェスタでは、アイドルのライブコンサートとのコラボという新たなジャンルを開拓したことが特筆されます🐱

ところで、"11月3日"といえば偶然にも三池鉄道最初の区間(横須浜~宮浦坑)の開通日という記念日にあたります。このことを以前にまとめましたので、参考まで。

炭鉱電車「鉄道の日」

少し前までは「近代化遺産一斉公開日」として馴染みのある日でもあり、2025年以降も同時開催が期待できそうです。


新年の初投稿は軽いネタから🐱

9号(現:三井化学保管)、11号(現:ステーションゼロ)、12号(現:万田坑)の20トン電車は、三井化学時代には、20トン電車3台×電源車3両で一致していたので、常に電源車デ形とのペアの姿がデフォルトでした。いっそのこと、テンダーとして20トン電車の一部とした方が、税金対策にはお得なのではと思ったりもしましたが、実際には検査周期の違いでペアの組合せはその都度変化しています。おそらく、どちらかの検査時以外は連結を解くことがなかったのではと思います。
もちろん、20トン電車単機での稼働は可能ですが、この姿で仕業に就くのを見ることはありませんでした。ある日、宮浦車庫をいつものようにのぞいたところ、単機の9号電車がそろそろと車庫から出てきました。すぐに庫内に戻ってしまいましたが、なんか得した気分でした。たまたま相方となる電源車が検査中だったのでしょうね。