2024年7月21日日曜日

デ1号電源車⑨

本題の前に。
炭鉱電車ステーションゼロの特設サイトが更新され、7月8月の公開日が発表されました。
公開日は今までと同様の第3土日曜ですが、夏休みスペシャルと称して入場料、乗車体験料がお得な設定となっています。チラシ(PDF12.5MB)は凝ったものでセンスよいですね。社内にデザイン好きな方がいるのでしょうか。


万田坑のデ1号観察を続けます。
ようやく~、デ1号の心臓部といえる蓄電池を見てみます。運転終了後の整備点検を見ることができました。


”蓄電池”をもっと間近で見たいという需要があるとは思えませんが、アップにした写真も挙げておきます(写真はデ3号のもの)。セルは5列5行で隙間なく並んでいます。真ん中ひとつはスペーサーなので全部で24セル。1セル2Vを直列で繋いで48V。10箱並べて480Vを確保しています。端子の間に見えるのはフロート液口栓で、精製水の液量チェック、兼注ぎ口となります。


電池箱の内側にラベルが貼ってありましたので、型式を覗き見ます。GSユアサ製の電気車用蓄電池”VGDS480-1形”とありました。同社HPで調べると、Vシリーズと呼ばれる電動車やフォークリフト向けの鉛蓄電池です。製品一覧に該当型式はないので、おそらくオーダー品だと思われます。型式にある”S”は何らかのオプション、”480”は蓄電池容量(5時間率容量480Ah)でしょう。


せっかくなのでオープン状態の蓄電池箱をみてみましょう。天蓋は平面ではなく、外側に向けてわずかに傾斜しています。天板裏に張られたは白いマットは遮熱材でしょうか。また通風孔が外側以外の三面にありますが、これは充電時に発生する水素ガスを逃がすためと思われます。




2024年7月7日日曜日

デ1号電源車⑧

デ1号電源車の制動(ブレーキ)について。
まずハコ1号から引き継いだ側ブレーキ装置から。種車ハコ形は側ブレーキのみで、片輪のみに、内側から片押しで掛かる仕様でした。制動力としては貧弱ですが、三池では標準仕様。
写真は”側ブレーキてこ止め装置”と呼ばれるもの。上がブレーキをかけていない状態(緩解)、下がブレーキをかけた状態(緊締)となります。テコの先端と、ラックハンドルが黄色く塗られているのはデ形のみの特徴。ハコ1号の製造年(1942(S17)年)からすると、元々はピンによってテコを固定する”ピン止め形”という方式(*1)のはずで、現在のラック形(ブレーキイージー13形)となったのは、デ形改造以降だと思われます。



デ形の製造時は側ブレーキのみでしたが、1965(S40)年6月竣工で空気ブレーキが取り付けられました。製造後1年ほどは各種試験的な運転となっていたので、その間に現場からブレーキの効きが悪いといった声が上がったのかも。デ1号の写真はうまく撮れていなかったので、1枚目は同型のデ4号から、2枚目は更新車のデ3号から。デ3号には床下機器がないので、配管を含めた機構がよく見えます。



ブレーキシリンダー(制動筒)のみとなっているので”直通空気ブレーキ”ですね。構造的には機関車のブレーキの一部となり、シリンダーを動かすエアーは機関車から直接供給されます。一般的な貨車は、”自動空気ブレーキ”として補助空気溜と三動弁が加わり、万が一の車輌分離の際に、その名の通り”自動”制動が掛かります。直通空気ブレーキは機関車と分離してもブレーキは作用しないリスクがありますが、構造がシンプルなのと、機関車からの反応がよいというメリットがあります。検査時以外は20トン電車と連結を解くことはないため、デ形ならではの特徴といえます。


デ形の台車は既に取り上げ済みですが、4輪すべてに両抱え式で制輪子が掛かります。三池貨車としては例外的な制動強化となっています。おそらく空気ブレーキ取り付けと同時改造と思われます。

デ1号電源車⑤
https://ushiyan-tantetsu.blogspot.com/2024/06/1.html

余談ですが、展示線にて逸走が起きた非常時の対策として、北(宮浦)側レイルにはカーキャッチャー(制動靴)がセットされていました。逸走時にはカーキャッチャーが車輪を受け止めて、レイルとの摩擦によって制動をかける機器になります。



(*1)ハト形無蓋車等に見られます。

2024年6月30日日曜日

デ1号電源車⑦

しつこくデ1号電源車を舐めまわしていますが、まだ続けます。今回は床下機器を見てみましょう。デ1号には矢印の位置に5個の箱型機器が下がっています。同型のデ4号も同じ機器配置ですが、更新されたデ3号には無いものになります。



文献(*1)によれば、床下機器は充電抵抗器となっています。このうち、4位車端側にある機器Aのみ形態が異なっています。巻かれたケーブルは機器箱から繋がっているようです。


左右床下に2個づつ、計4つある機器Bです。蝶番がありますがボルト締めしてあるので、通常は開かないと思われます。天面の円盤は、抵抗器の熱を逃がすベンチレターでしょうか。






(*1)鵜沢正治・山司房太郎「三井鉱山三池港務所電源車 新設計蓄電池を搭載」『東芝レビュー1963(S38)年10月号』東京芝浦電気発行

2024年6月21日金曜日

デ1号電源車⑥

デ1号電源車の機器箱、何が入っているか気になりませんか😹
隠れたものは見たくなる、その性(さが)には抗えぬという訳で、はい御開帳。


以下、フルオープンの写真は同型のデ4号から。ツナギ図(*1)をもとに、各機器を推測します。機器箱の蓋は2つに分かれているので、まずは20トン電車との連結栓のある4位側から。プラス、マイナスそれぞれに自動遮断器(ブレーカー)が付いています。ACBとあるのは気中遮断器のこと。電源車電路の最初の機器になります。型式年式までは見ていませんが、傘マークの東芝が書かれているのでかなり古いものでは(製造当初のものかも)。



3位側はこんな感じ。中央寄りの機器はバネが見えるので電磁接触器だと思います。ツナギ図では、Lは断流器、CCは充電接触器となっています。手前側の機器はRCRY、CCBと書かれていますが、これは何でしょう(;'∀')。一番手前のかげに隠れていますが、緑の筒状のものは抵抗器だと思います。


機器箱蓋の裏には小さなシールが貼ってありました。拡大すると、蓄電池の取り扱いについての注意事項が書かれています。




(*1)鵜沢正治・山司房太郎「三井鉱山三池港務所電源車 新設計蓄電池を搭載」『東芝レビュー1963(S38)年10月号』東京芝浦電気発行

2024年6月14日金曜日

デ1号電源車⑤

4月より毎月2日間(第2第4日曜)の定期運転も安定してきた万田坑の12号電車+デ1号電源車。なぜか天気に恵まれない日が連続しましたが、雨天かまわず決行されています😹

今回はデ1号の台車周りを見てみます。
デ1号は、ハコ1号15トン積み無蓋車の改造(1962(S37)年)です。ハコ1号は1942(S17)年若松車輌製。ハコ時代の姿は未発見なため詳細は不明ですが、同世代の国鉄無蓋車の規格に倣ったと思われ、当時としてはスタンダードな、一段リンク式台車となっています。



両抱え式のブレーキ、また4輪すべてに掛かる仕様なのは三池貨車としては珍しい事例で、おそらく20トン電車の制動力を高める意味があったと思われます。車輪は一体圧延となっていますが、古い写真を見るとスポーク車輪でしたので、いつの間にか交換されたようです。

2024年5月27日月曜日

電源車デ形について②

前記事はこちらになります。

東芝社報より「三井鉱山三池港務所電源車 新設計蓄電池を搭載」(*1)から、電源車デ形についての2回目、「電源車を利用した際のおもな利点」を読んでみます。


この記事は、電源車全般に加えて三池港務所の事情にも触れており、当時の蒸気機関車の使用状況のまたとない資料となっています。蒸気機関車は宮浦駅周辺の工場引込線の入換が主な仕業で、宮浦操車場(電化済み)と工場線(無架線)の間をつなぐ役目になります。
以下、長い引用になりますがメリットとして8項目(プラス1)があげられています。

「老朽化した蒸気機関車を全廃することができて運転費、保守費が軽減された」

蒸気機関車の運転コストをなくすことが電源車導入の第一義なので、このことが筆頭に書かれています。保守作業が無くなることも大きなメリットでした。万田駅の汽関庫からトコトコ回送してくるのも時代に合わなくなったようで。

「ボイラの灰落としによる無駄な時間がなくなり作業効率が向上した」

これは後で述べる⑥とも関係しますが、蒸気機関車特有の仕業前後の整備作業がなくなるメリットです。実働時間が延び、かつ人員の削減につながります。

「本線と引込線との接合部でその都度蒸気機関車と電気機関車のツナギ替えをおこなう必要がなくなり、また在来の電気機関車を有効に運転できるので就業効率が向上した」

蒸気機関車の主な用途は、工場内の入換(同じような状況の三池浜駅もか)でしたが、本線(宮浦操車場)から無架線の工場内まで機関車付け替えなしで電気機関車が入線できるようになりました。

「従来使用していた蒸気機関車はけん引力が小さく特定の場所では重連運転しなければならなかったが、電気機関車に代わったためにけん引力が大きくなり、重連運転の必要がなくなったので運搬効率が向上した」

SL重連が必要だったという特定の場所、気になりますね。宮浦駅の東側、化学工場側は一番奥のガス工場まで緩やかな上り勾配ですが、はたして重連を必要とするまでだったのか。わたしは宮浦駅の西側、小高くなった宮浦坑への引込線かなと思っています。いまは線路跡の痕跡が無いのでイメージし辛いのですが、配線図によれば現在の宮浦石炭記念公園あたりまで線路が引き込まれていました。

「架線区間で万一停電が起きても電源車の電池が電源となり運転を継続することができるので、作業に支障を来すことが無く便利である」

停電となることがしばしばあったのかな🙀

「必要な時にいつでも即座に使用することができて便利である」

一般的には蒸気機関車の運転準備(石炭を焚いて缶圧が上がるまで)に2時間を要するとされます。

「蒸気機関車とは異なり機関助手は不要で人員の削減ができる」

これは①とも関係していますが、人員コストの面でのメリットになります。

「煤煙が一掃されたので運転手、信号手や沿線の人々は汚れないため大喜びであり環境が著しく改善された」

無煙化の一般的なメリットです。宮浦駅周囲にはあまり民家はありませんが。
ちなみに鹿児島本線の無煙化は1974(S49)年でした。大牟田荒尾入換用の蒸気機関車(C11形)が残りました。

「この外電源車を使用すると隣り合っている架線区間の間に無架線区間が挟まっていて普通電気機関車のままでは隣りに移動できない場合でも電源車が連結されていると容易に移動できる」

これは③と同様な内容になります。機関車付け替えが無くなったメリットが繰り返して強調されています。



(*1)鵜沢正治・山司房太郎『東芝レビュー1963(S38)年10月号』東京芝浦電気発行


2024年5月20日月曜日

炭鉱電車ステーションゼロはこう行く

 2024(R6)年4月20日にオープンした”炭鉱電車ステーションゼロ”(以下、ステーションゼロと略)。追って当面は毎月第3土日の公開(10:00~16:00)と発表されました。会場の様子はSNSでボチボチとあがってきましたが、当初は”どこにあるのかよく分からない”という声もチラホラ。ようやく待望の公式サイトがアップされ、駐車場の案内が加わりました。

白石ホールディングスHP(ステーションゼロ)

白石グループインスタグラム

グーグルマップでは最寄り駅を西鉄新栄町駅とすると最短850mと出ます。徒歩で12分。ちなみに大牟田駅からだと1.5km、わたしならレンタサイクルの一択かな。適当なバス路線はありません。

さっさと炭鉱電車見て帰るわ!というセッカチな御仁をのぞき、折角なら三池鉄道の歴史の一片を見てほしいと思います。そこで廃線跡の寄り道資料を作ってみました。宮浦~三池浜間の通称「浜線」、残念ながら線路跡を歩くことは出来ませんが(パイプライン敷地として活用)、築堤区間のため多くの橋梁が架けられています。
以下、新栄町駅から7つの橋梁を確認しながらステーションゼロまで辿ってみましょう。



①栄町架道橋


グーグルストリートビューより(新栄町駅側)

グーグルストリートビューより(大牟田駅側)

新栄町駅から南(大牟田駅)方向に歩くと、最初に着く架道橋です。くぐると大牟田市栄町となります。大牟田の商店街の一角ということからか、橋桁はギリシャ?風なモニュメントで両側を挟まれ、橋台もストリートアートの壁面として隠されています。遠目では鉄道跡に気付けないもかもしれません。


ところで、栄町には1970(S45)年4月まで西鉄栄町駅(新栄町駅開業につき廃止)がありました。以下のリンクは西鉄HPより、駅前にあった栄町架道橋(1970年)がばっちり写っています。それにしても駅前は人と車が多い!

西鉄Webミュージアム/沿線風景アーカイブス/栄町


②紡績前架道橋


グーグルストリートビューより(新栄町駅側)

グーグルストリートビューより(大牟田駅側)

”紡績”とは曰くありげな名称、現在の新栄町駅前はかつて三池紡績(のちに鐘淵紡績三池工場)でした。1891(M24)年より操業とあり浜線敷設と同時期になります。当初は九州最大の紡績工場でした。
この架道橋の見どころはふたつ。まずは橋脚に支えられて長短に分かれた橋桁。おそらくですが、広い方は軌道線を越えていたと思われます。1878(M11)年に大浦坑~船積場を結ぶ馬車軌道が敷設されました。三池鉄道の始祖的存在ですが、1899(M32)年に輸送ルートの変更により大部分は廃止されましたが、この軌道本線より紡績工場の引込線が分岐していました。大牟田港との間で綿花やボイラーの燃料炭を運び、1938(S13)年まで使用されています。
もうひとつの見どころは、橋台と橋脚の床石(橋桁を承ける石材)が高低に2つあることです。低い方は1891(M24)年11月敷設された際の当初の位置のもの。その後、九州鉄道(現在の西鉄大牟田線)の栄町延伸(1938(S13)年)により、三池鉄道側が嵩上げ工事を施して1939(S14)年8月に竣工しています。おそらく栄町架道橋にも同様の遺構があると予想されるのですが・・・

橋のたもとにあった"ガード下食堂"はちょっと知られていました。写真でみるように、建屋の一部が橋脚に食い込むような面白い店屋でした。橋向こうが新栄町駅の駅前(紡績工場跡)になります。名物はちゃんぽんで、店先では万十も売ってましたね。




③明治町架道橋


グーグルストリートビューより(新栄町駅側)


グーグルストリートビューより(大牟田駅側)

片側2車線の県道18号を越える長いスパンの架道橋です。明治町はこのあたりの町名ですが、橋をくぐって大牟田川(大正橋)をわたると大正町。ちなみに大牟田には明治大正昭和まで元号の町名が揃っています。
古い地図ではこの区間は築堤となっており、架道橋は後から架けられたもので、橋台はコンクリートとなっています。橋桁には三池製作所1954(S29)年9月竣工の銘板が見つかります。三作がまだ三井鉱山の事業所だった頃。また、明治町架道橋がまだ無かった頃には、大牟田川川岸にあった横須坑木倉庫に下りていく引込線がこのあたりから分岐していました。



④№1開渠


グーグルストリートビューより(新栄町駅側)

グーグルストリートビューより(大牟田駅側)

名称は開渠となっていますが、実態は蓋がされて暗渠となっています。人が通れる程の幅しかありません。築堤と大牟田川とのあいだが、かつての横須坑木倉庫跡。どうやら水中貯木場があったらしく、暗渠はそこに通じる水路でした。




⑤稲荷川橋梁


この区間では河川を越える唯一の橋梁です。稲荷川は大部分が暗渠ですが、この橋梁付近のみ姿を現しています。残念ながら、煉瓦積みの橋台に近づく手段がありません。




⑥横須架道橋


グーグルストリートビューより(新栄町駅側)

グーグルストリートビューより(大牟田駅側)

”横須”はかつての横須村に由来しますが、町名としては継がれませんでした。越えていく道路は大牟田川の中島橋に通じています。この中島橋は官営の馬車軌道時代に大牟田川を堰き止めた水門(第一水門)があったところで、川中の”中島”に指揮所がありました。中島橋の上流側はかつての石炭船積場(のちに坑木置場となった)となり、いまも川幅が広いのはその名残と思われます。
さて橋台をみると、橋桁の床石が2線分並んでいます。新栄町側は本線跡ですが、大牟田川側は横須船積場の高架桟橋へと通じていた線路跡になります。ポイントはさきほどの稲荷川橋梁とのあいだにあったようです。三池港の開港以前は、船渠となっていた横須船積場にて石炭船積みが行われました。高架桟橋や船渠の遺構はありませんが、ステーションゼロそばの明治町ポンプ場が船渠跡になります。




⑦北磯架道橋


グーグルストリートビューより(新栄町駅側)

架道橋上より、左に振り向くとステーションゼロ

ステーションゼロの東端に接する架道橋です。住吉橋(大牟田川)に通じる道路を越えていますが、コンクリート桁なので道路からはほとんど気付かないでしょう。交通量がありますが、明治町架道橋同様、あとから架けられたものです。写真は北磯架道橋を三池浜駅跡側から撮ったもの。橋上には枕木が残っていました。撮影の立ち位置は、今はステーションゼロの敷地内になります。


以上、簡単ながら浜線の橋梁跡を辿りながらステーションゼロへのガイドとしました。この区間は世界遺産の対象とはならなかったものの、三池鉄道最初の開通区間として重要な鉄道遺産と思います。煉瓦積みの橋台のほかにも、築堤を支える石積みなど見どころがあります。なお、ステーションゼロ入口前の道路は、かつて三池浜駅の手前にあった踏切跡です。

2024年4月30日火曜日

万田坑の新設充電装置について

更新間隔あいて、どーもすいません。
この間、いろいろと重要な動きがありましたので、一先ずまとめます。

まずは万田坑の保存機から。
2024年2月13日万田坑12号+デ1、充電装置取付工事開始(2月16日より試運転)
2024年3月10日万田坑12号+デ1、万田坑スプリングフェスタにて公開運転(3回)
2024年4月14日万田坑12号+デ1、定期運転公開初日(1日6回)
以降、定期運転については第2第4日曜日の運転が発表されています。

充電装置の取付けについては、すでに荒尾市よりアナウンス(2023年8月)されていたので予定通りの施行です。

もうひとつは非公表(というか秘匿)されていた情報で、大牟田市の白石ホールディングス株式会社(大牟田市新開町)での炭鉱電車保存事業です。保存対象となったのは11号と19号電車。
2023年1月14日から15日にかけて宮浦駅より大牟田市北磯町へ陸送(非公表)。
以降、車輛はブルーシートを掛けて仮保管。ブルーシート時代はわたしも一応見ています( ´艸`)

おおよそ1年をかけて、車庫やギャラリー、ショップの各棟建設、およびレイル敷設(宮浦駅で使用されたレイルとポイント、枕木を再利用)が施行され、2024年3月19日に竣工式。施設名は「炭鉱電車ステーションゼロ」。ゼロ(0)は、かつてこの北磯町にあった三池浜駅(0km鉄道起点)に由来します。

2024年4月12日炭鉱電車ステーションゼロ、完成記念式典。ディーゼル機関車(TMC200C形)による19号牽引を披露。新聞各紙報道あり、以降、情報公開が解禁。
2024年4月20日炭鉱電車ステーションゼロ、一般公開初日(3回運転)。
5月6月は第3土日の公開が発表されています(4月現在)。

ステーションゼロ、および万田坑の炭鉱電車事業については、鉄道車両保存事業を手掛ける㈱ワンマイルがハードソフト両面で請け負っており、実際の運転も担当しているとのことです。現時点では両所とも一般公開を始めたばかりで手探り感もありますが、今後イベントなどが活発化していくことが期待できますね。



閑話休題。12号電車デ1の充電装置について解説。
定期運転終了後の充電装置を見たままリポします(わたしは電気の素人なのでツッコミどころ満載)。

<外部機器>
これは巧いな~と思ったのは、元々あった12号解説板の裏側を利用しています。まるで最初からの計画ではと思えるほどしっくりとして目立ちません。すぐ近くの柱に設置された分電盤(照明用)からのAC100Vがまずこの外部機器(タイマー)に。さらに外部機器からの制御線を合わせた1本のケーブルが12号電車の床下に導かれています。



12号電車の床下を見ています。ちょうど連結器の裏側に当たります。写真はケーブルが巻き取られた状態で、外部機器に繋げるソケットは車輌側に収納されています。


<車輛機器>
12号電車の2位側ボンネット(電源車側)に車輛機器が収まっていました。こちらのボンネットは大半を主抵抗器が占めていますが、正面側とのスペースにコンパクトに収まっています(写真は機器カバーを外しています)。


参考までに機器設置前のボンネット内部はこんな感じでした(写真は9号電車)。うまい具合に都合よいスペースが空いていましたね。


新設機器ですが、メーカーと型式があるのですぐヒットしました。横浜にあるテクシオ・テクノロジー社製のスイッチング直流安定化電源(PSU600-2.6)でした。型式の数字が出力を表していて、入力AC100→出力DC600V-2.6A、これを並列配置して出力DC600V-5.2Aとしています(一応、4基まで増設可能に見えます)。下世話ですが、一基30万近いお値段でした。
出力600Vは架線電圧と同じですが、僅か5Aとなると(九電の契約アンペアの制限?)、デ1号の空充電から満充電までは一月以上かかる計算となると思います。ただ、実際には公開運転程度ではバッテリーの消費がそれほどではないため、ゆっくりな充電で時間的には問題ないとのことです(むしろバッテリーには優しい)。

<運転室>
充電(正しくは準備状態)での運転室内を見ています。外部機器とケーブルが繋がっているので、12号デ1号ともブレーキをかけています。


架線-電池の切替レバースイッチは、真ん中の”切り”の位置です。上の写真で主電圧計は0を指しています。レバーについては、バッテリー運転中は下(=電池)、運転停止中は上(=架線)にしていました。”架線”は切りと同意なので、万一のいたずら侵入で機関車を動かさないための処置でしょうか。あと、青ケーブルが追加されているのは気になります。このケーブルはボンネット内の基板配線に繋がっている?


ちなみにパンタグラフは畳まれたままです。本来、電源車の充電はパンタグラフを経由して行われていました。今回の機器設置の工事中の写真を見ると、わざわざパンタグラフを上げたシーンがあったので、配線的に充電時のみ上がるかもと期待しましたが、これは当てが外れました。逆に言うと、構造上は不必要(=お飾り)となったので、パンタグラフをあげたまま、バッテリーで走ることも出来るのか?←あくまで余談です。

以上、見たまま。おそらく配線等にも手が加えられていると思いますが、この辺りは素人には理解できません。ちなみにデ1号は変化を確認できませんでした。工事開始前は、12号電車に大きく手が加えられるのかと危惧しましたが、まったくの杞憂に終わりました。
施工業者のセンスが光っています。

2024年2月15日木曜日

三池の絵葉書から①

しばらく更新が滞りましたが、この間、2024(R6)年1月に万田坑にて『千本桜展2.0~桜京の夢』(*1)の開催がありました。荒尾市は万田坑でのイベント開催に積極的ですね。この他、わたしには疎いジャンルですが、コスプレイヤーやアイドル撮影会などもしばしば催されおり、万田坑の知名度のアップにつながっています。このおかげか、炭鉱電車12号と18号の姿もSNSで多く見かけるようになりました。つまりは別嬪さんの背景として😻


マイコレクションから万田坑の古絵葉書をひとつ。三池炭鉱の数ある坑口の中でも、万田坑については群を抜いて発行数が多いのは間違いないでしょう。威容をほこる第一立坑を中央に配し、万田坑全体を見渡す構図は定番のひとつです。


以下、絵葉書に解説を少々。
この構図は、万田坑を西側(荒尾市原万田)から見ています。すこし高い位置からの撮影で、現在も小高い丘となっていて場所は特定できますが、笹藪となっていて見通すことは難しいのが残念。
手前の線路は三池本線、右手が三池港、左手が宮原方面です。第一立坑巻上機室そばに見える建屋が初代万田駅。よく見ると、そばには給炭台と水タンク。その奥の選炭場は、今は12号と18号電車が保存されている位置になります。
なお、この絵葉書は、万田駅構内は未電化なものの、8トン炭車の姿があるので、1905(M38)~1911(M44)年頃の撮影ではないかと推測されます。


三池炭鉱の絵葉書は非常に多く発行されており、コレクションの愉しみとなります。これら絵葉書は、おそらく物見遊山のお土産として大牟田駅などで売られていたもののほか、三池港に上陸した外国船員の日本土産となったことでしょう。三池の産業遺産観光も定着した感がありますが、三池炭鉱が”遺産(heritage)”となる以前から、もともと産業観光という一面があったのではないかと思っています。


(*1)荒尾市HPより『千本桜展2.0~桜京の夢』チラシ(PDF)

2024年1月6日土曜日

わたしが見た炭鉱電車抄録③ 1997~2020編

この記事は『HP炭鉄』からのサルベージ&リペアになります。
なお抄録として書いたので写真は拡大しません。

わたしが見た炭鉱電車③は、1997~2020年編となります。正式名称は、1997(H9)年4月より”三井東圧化学専用鉄道”、同年10月に社名変更があり”三井化学専用鉄道”となりました。路線は旧旭町線1.8キロ(宮浦~旭町)のみが引き継がれ、三井化学大牟田工場関連の貨物のみを扱うこととなりました。三池鉄道128年の歴史のうち、最後の23年間にあたります。

わたしは1997(H9)年10月を最後に1998~2001年は訪問をしていませんので、この間の動向については分からない部分があります。2002(H14)年に訪問を再開したのは、『HP炭鉄』を始めるにあたっての情報収集のためでしたが、以降、毎年1~3回の訪問を重ねました。2007(H19)年からは大牟田市が所有する電車4両が一般公開されるようになったため、公開日のある11月が定例の訪問月となりました。

 三池本線最後の運転は、大牟田市が譲受した電車4両(三井化学内に仮保管)と、三井化学が引き継いだ電車5両、貨車7両(ハト形、ヒト形、検形)および保線車両(トラック型モーターカ)、部品取りとした電車3両の回送をもって、1997(H9)年中に終了した模様です。わたしが同年10月に三池港駅を訪れた時点で残っていた車輌はなく、レイル撤去が本線を遡るように始まっていました。

 <JR継走>旭町→宮浦の化成品タンク列車

三井石炭鉱業専用鉄道より引き継がれた宮浦駅に隣接する三井化学大牟田工場の化成品輸送です。定期的な濃硝酸と液化塩素の到着貨物でした。タンク車の陣容は変わらず、濃硝酸はタキ7500形、タキ10450形、タキ29000形、タキ29100形、液化塩素はタキ5450形が用いられていました。かつては様々な発駅があったものの、正確にはいつ頃からの事なのか分からなかったのですが、濃硝酸は三菱化成から(黒崎駅発)、液化塩素は旭化成工業から(南延岡駅発)の2社に絞られました。


旧旭町線をゆく19号のタンク車編成。鹿児島本線との並走区間です。


浅牟田町108号踏切をゆく濃硝酸タンク車。
この踏切は大牟田川の流路変更により廃止されました。



<JR継走>旭町→宮浦の化成品コンテナ列車

従前のタンク車がタンクコンテナに置き換えられたものです。タンク車の老朽化、およびJRのコンテナ化推進により、まず2009(H21)年6月(頃か?)に濃硝酸タンク車がコンテナ(三菱化学物流所有 UT13C形=通称”銀タンコ”)に置き換えられ、同年12月には液化塩素タンク車もコンテナ(日本陸運産業所有 UT13C形=通称”黄タンコ”)に置き換えられました。これ以降、使用車両はJR貨物のコキ200形(2個積み)となりました。2020(R2)年5月の鉄道廃止までコンテナ輸送が行われ、最終列車は銀タンコ5両の返却列車となりました。なお、鉄道廃止の直接の理由は、三菱化学(←三菱化成)の硝酸製造の廃止によります。


宮浦駅に到着した濃硝酸銀タンコ編成。


大牟田工場への入出場はコキ200形1両単位となり入換頻度が増えました。


仮屋川操車場にて液化塩素の黄タンコ。


浅牟田町108号踏切をゆく黄タンコ。


<JR継走>宮浦→旭町の海上コンテナ車列車

大牟田工場で製造されてドラム缶詰めされた化成品の、海上ドライコンテナによる発送貨物です。なおドラム缶の中身は、TDIと思われるポリウレタン半製品と推測されます。北九州貨物ターミナルから日明コンテナ埠頭に陸送、船舶によって主に中国へ輸出されていたようです(北九州貨物ターミナルからの物流については未確認)。このコンテナ輸送は、1999(H11)年12月の試験輸送からスタートし、宮浦駅の南側には専用のコンテナホームが新設されて、大型フォークリフトが配置されています。当初はコキ106形に海上コンテナ1個積みとしていましたが、2003(H15)年頃にはコキ200形に2個積みとしています(以降も稀にコキ106を使用)。
 2002(H14)~07(H19)年は国土交通省が推進したモーダルシフト実験の対象となるなど注目をあつめた輸送となり、わたしの見たかぎりでは、最大でコキ200×5両(コンテナ10個)が組まれるなど、活発な輸送が行われた時期がありました。ただし、わたしの印象では2008(H20)年頃より次第に減少に転じたとみられ、2~3両程度の短編成、かつ低頻度運転となっていました。輸送が低調となった事情は不明なのですが、その後、一足早く2017(H29)年初頭に廃止されたと思われます。


宮浦石炭記念公園より。
入換都合でタキ5450形が挟まっています。


旧勝立線跡ホームより。
コンテナ車を牽き出します。



<社内>宮浦⇔旭町の錆取り列車

三井化学大牟田工場が5月半ば~6月半ばにかけて定期メンテナンスに入り、列車が運休される期間に、週一程度のペースで運転された列車(コキ200牽引や、単機)です。社内での正式名称は不明ですが、趣味人の間では”錆取り運転”と呼ばれ、おそらく信号や踏切の保守作業であったと思われます。残念ながら、わたしは目撃出来ませんでした。



<社内>電車交代

宮浦車庫との間で走った45トン電車および20トン電車の交代運転です。通常、宮浦構内には45トン電車1両(宮浦~旭町用)および20トン電車1両(工場入換用)が配置されましたが、2週間程度の間隔でそれぞれローテーションが行われました。なかなかタイミングが読めない運転でしたが、わたしも一度だけ目撃出来ました。


三坑町踏切にて、電車交代のため車庫に引き上げます。



<社内>コンテナ積替え

列車というわけではありませんが、2011(H23)年3月”コキ200問題”と呼ばれた空コンテナ搭載禁止(成田線での脱線事故で判明。原因はコキ200の台車問題)に対処するため、コキ104・106形への空コンテナ積替え作業です。大牟田工場にて荷卸しを終え、”空コンテナ”を積んで戻ってきたコキ200形から、コンテナホームにて一旦コンテナを降ろし、コキ104・コキ106形へ再び積み直すという作業でした。この積替えのため、JR貨物よりトップリフターが配置されています。積替え作業は、2011(H23)年11月より始まり、2013(H25)年2月に台車改良されたコキ200形の復帰により解消しました。


コンテナホームにて銀タンコ積み替え。
空車コキは、空コンテナの搭載用。


黄タンコも同じく積み替えられます。