2025年6月16日月曜日

デ4号電源車③

デ4号電源車の3回目は履歴について🐱

デ形デ1~4号が1962(S37)年8月~9月にかけて竣工しています。『電源車履歴簿』(*1)によれば、港務所施設課において電気機器や蓄電池を取り付けており、東芝からの出張にて現地完成したことが分かります。

この後の増備は無く4両体制を維持しますが、履歴簿によれば、デ4号は1982(S57)年3月より蓄電池不良となり、修復見込み無しとして4月1日付で使用中止としました。一方、同月16日をもって”デ2号をデ4号に改番し”、デ4(Ⅱ)号として出庫しています。

残念ながら、わざわざ振替改番した理由について履歴簿には記されていません。『竣工図表』にはこの経緯は記されておらず、名義上はデ2号を廃車として、財産上はデ4号を残しておかなくてはならない事情があったのか、あくまで真相は謎です。なお、デ2号はこの2年前に新しい蓄電池に交換されたばかりでした。

初代デ4号の廃車体は三池港駅に留置されていたのを目撃しています。蓄電池を無くした車体には”休車”と書かれていますが、実質的には廃車に見えました。車番は消されていましたが、4の数字が透けていました。当時は改番の経緯は知る由もなかったのですが、振替がおこなわれたことは推測していました。


(*1)NPO炭鉱電車保存会所蔵

2025年6月14日土曜日

三池の絵葉書から⑨七浦坑

マイコレクションから、今回は七浦坑の絵葉書を1枚🐱

キャプションは「三池七浦炭坑 VIEW OF MIIKE COAL MINE」。宛名面に「SEIUNDO PRINTING CO.LTD.」とあります。羽の生えた馬(ペガサス?)のマークが描かれていることから、おそらく東京飯田橋「青雲堂」の発行と思われます。

七浦坑は、官営時代の1879(M12)年7月に第一立坑(揚炭・入気)の開鑿に着手し、1883(M16)年1月より操業開始、第二立坑(排気排水・人員)が1883(M16)年6月開坑、第三斜坑(排気)が1884(M17)年11月開坑しています。
官営三池の主力坑口であり、明治期を通して操業しましたが、第一立坑は1923(T12)年5月閉坑して七浦坑からの出炭は終了し、第ニ坑・第三坑も1931(S6)年5月閉坑しています。

七浦坑の遺構としては『福岡県の近代化遺産』(*1)によれば、煉瓦積みの第一立坑巻揚機室と、第二坑建屋一部が残っているようです。ただし工場敷地内のため公開はされていません。このうち、巻揚機室らしき建屋は高台から少し見えましたが、樹々に遮られて全体は見通せませんでした。


今回の絵葉書は、七浦坑絵葉書としては最も流通しているものですが、大きなエラーがあることに気付かれるでしょうか。じつは裏焼き写真で、左右が逆になっています。左右反転して、施設名を加えてみました。


中央に見えるのは木造の第一立坑櫓。櫓周囲の建屋のうち、エンドレス原動機室とあるのは、大浦坑を結んだエンドレスロープ軌道の動力となる施設です。坑外軌道によって大浦坑からの石炭は七浦選炭場に運ばれました。選炭場の積込線には4トン炭車の姿が見えています。
七浦坑の手前、日傘をさした女性?が歩く線路は勝立方面の線路(→勝立線)と思われます。途中、大牟田川を渡る橋梁が確認できます。

三池鉄道の一番最初の免許区間は「横須海岸~平原間」ですが、この「平原」が七浦坑にあたり、七浦駅として機関庫が設けられています。絵葉書には写っていませんが、選炭場の向こう側に七浦駅の操車場が広がっていました。

(*1)福岡県教育委員会編集 1993西日本文化協会

2025年5月26日月曜日

デ4号電源車②

デ4号電源車についての2回目🐱三井マークが描かれていた頃の写真を拾ってみました。個人的には相性がよく、稼働する姿によく出会っていました。

前位妻面のステップ増設(および側面足掛けの撤去)は1990年代前半におこなわれたようです。なお、旭町1号踏切をゆくのは11号+デ4号です。当時は宮浦仕業として仮屋川操車場に返空タンク車を送り込む片道運用がありました。旭町線なので架線集電での運転です。



サイドビューから2枚。2004(H16)~2005(H17)年の間に電源車-20トン電車を結ぶ電気連結栓一式が交換されています。コネクタ化されてコンパクトになりましたが、おそらく同じ時期に蓄電池箱間の連結線も同様に交換されています。あと、当時はスポーク車輪を履いていますね。



上から見た写真はあまりなく、苦し紛れの1枚。蓄電池箱蓋には電池番号(3位側より1~10)が描かれています。数字の描き方は、以前は四角で囲った小文字のはずですが、いつのまにか大文字に変わっていました。


下の写真は『私鉄電気機関車ガイドブック』(*1)からの引用です。不明瞭ですが車番はデ4号と読めます(←おそらく(;'∀')...。

『私鉄電気機関車ガイドブック西日本編』(*1)より引用

スタイルには変化がありませんが、前位側(写真右側)の連結器が下作用式となっていることが目を惹きます。原形ハコ形は無蓋車のため上作用式と推測されるため、デ形改造の際に下作用式に取り替えたと考えられます。本来、前位側の2位寄りには、もうひとつの電気連結栓承を備えていたので、自連の解放テコの干渉を避けるための仕様と思われます。デ形の両頭仕様については既にまとめましたが、デ4号の場合、1974(S49)年3月に前位側の電気連結栓承を全部撤去したという記事が『電源車履歴簿』(*2)に見つかりましたので、引用した写真はちょうど工場入りしていた時のようです。

電源車デ形について⑤

(*1)杉田肇著 誠文堂新光社1977
(*2)NPO炭鉱電車保存会所蔵

2025年5月19日月曜日

保守運転最終日(2022/9/29)

 2020(R2)年5月7日をもって三池鉄道の営業運転は終了しましたが、その後も11号(+デ3)と12号(+デ1号)は、動態保存を目指しての週2日のペースで保守運転行われていたことは知る人ぞ知る事実です。一応、”保守”という言葉を当てましたが、現場では実際には何と呼ばれていたのでしょう(*1)
2022(R4)年3月までは旧宮浦操車場にて運転されていましたが、同地の施設撤去の開始に伴い、同年4月からは旧ウレタン線(海上コンテナ線)での運転に変わりました。わたしは旧操車場での運転は実見できませんでしたが、旧ウレタン線での運転は2回目撃できましたので、その模様は順次取り上げる予定です。

その旧ウレタン線も撤去に着手されることとなり、2022(R4)年9月27日をもって保守運転の終了日とするとの一報を受けて、急ぎ大牟田を訪ねました。以下の写真は当日の最終運転からです。すべて側線末端の三坑町4号踏切跡から撮ったもので、奥側が宮浦車庫と旧宮浦操車場になります。


宮浦車庫を出庫した12号電車が旧ウレタン線を往復します。途中から前照灯と標識灯が灯されたのは最終日のファンサービス😸ちなみに、前照灯は前後進で自動的に切替わるのは最近知りました。


旧ウレタン線は、三井化学専用鉄道時代には海上コンテナの発送線として使われていた側線で、フォークリフトによる20ftコンテナ積卸しのための低床ホームがあります。”ウレタン”はコンテナの積荷で、おもにコキ200が入線していました。現役時代は基本的に宮浦駅からコンテナ車を推進して入線していたので、側線末端まで20トン電車が入るのは珍しいシーンとなります。終端の車止めはすでに搬出済みのため、唐突にレイルが途切れていました。


写真左端の線路は旧三池本線。1997(H9)年4月以降は実用途がなくなったため(検重車が留置していたぐらい)、雑草茫々の時代が長いですが、撤去作業のために草が刈られたようで、久しぶりにレイルが現れていました。


いよいよ保守運転最後の折り返し。運転士が片手を上げてそのことを告げます。側線末端に陣取っていたわれらギャラリーも思わず手を振り返しました。


宮浦車庫へと帰る12号電車。翌2023(R3)年1月万田坑への陸送まで、このまま庫内にて暫しの眠りにつくことになります。それにしても旧ウレタン線の周りには緑が多く、最後の最後になって意外な風景を見せてくれました。


(*1)現場では"維持運転”と呼んでいたとの情報を頂きましたので、付記しておきます(2025.5.19)

2025年5月1日木曜日

デ4号電源車①

まだまだ懲りずに電源車ネタ、今回からはデ4号を取り上げます🐱

デ4号は、握り棒の塗り分け等の些末なことを除けば、形態的にはデ1号と同形となっています。種車となったのは番号順ならばハコ形無蓋車ハコ11号です。以下の写真は鉄道廃止後(2020年5月)以降に撮ったもの。最終期は9号電車とペアを組んでいました。





2025年4月25日金曜日

三池の絵葉書から⑧三池港

マイコレクションから今回は三池港の古絵葉書🐱
米国船DIX号へ、船渠岸壁の”三池式快速船積機(ダンクロ・ローダー)”による石炭積込の光景になりますが、組写真として2枚を並べてみました。
「三井三池米国御用船ヂックス載炭 LOADING OF COAL AMERICAN STEAMERSHIP AT MIIKE(山田商店製)」と、「三井三池港米国御用船ヂックス載炭 COALING THE U.S.A. TRANSPORT"DIX" AT PORT MIIKE(津村写YS)」です。後者も"YS"とあることから、山田商店の発行と思われます。



ただ、DIX号は2度来航(*1)(*2)していますので、これら絵葉書が同時に撮られたものなのか確証はありません。何となくですが、歓迎の雰囲気から最初の入港(1917(T6)年)の時という気がします。物見遊山の老若男女が出向いていますが、子守りの女性や頬かむりの男性など、近隣からチョッと見に来たといった長閑な風情。



絵葉書中央に見える船積機(ダンクロ・ローダー)については別途取り上げる機会がありますので、詳細は後日に改めて。石炭船積のフローとしては、石炭卸し線からの石炭はバケットに落とされ、そのバケットが船積機のガイドを上下することによって、シュートを通じて船積されます(このような船積機の構造をスキップホイストといいます)。1枚目の絵葉書では、ちょうどバケットがシュート位置まで牽き上げられたシーンになります。

数多い船渠岸壁の絵葉書として、ほかに見られない珍しい光景と思えるのは、2枚とも石炭卸し線に蒸気機関車(サドルタンク機のようです)が使われていることです。荷卸し線は電化されており、本来は15トン電車の持ち場です。電動化されている船積機とともに”オール電化”が売りの船渠岸壁ですので、坑口から直接到着した石炭列車かも知れません。

せっかくなので、DIX号について。
DIX号の船首には"U.S.ARMY TRANSPORT DIX"とあります。「米国陸軍輸送隊 DIX号」となるでしょうか。これで検索を掛けると、いくつかの画像とデータがヒットします。以下、Wikimedia Commonsより船歴を簡単に引用しておきます。
1892年 Samoa号(排水量7200トン)として英国にて竣工
1900年米国需品局が購入、陸軍輸送隊に配属
1901年DIX号に改名
1922年売却、Grace Dollarに改名
1928年神戸にて廃船
ちなみに船尾に書かれているのは"QUATERMASTER DEPARTMENT”と思われ 、これは所属部署の「アメリカ陸軍需品科」になります。

(*1)『年表と写真でみる大牟田市の100年』(2017大牟田市市史編さん委員会)によれば、1917(T6)年6月、および1923(T12)年12月に入港とあります。
(*2)『海商通報』(海商社1909(M42)年7月)には次の記事が見られます。「米国御用船の三池港寄港に就いて/来る8月米国御用船ヂツリス号が、長崎に寄港することなく三池港に於いて石炭を搭載することは既に確定せし所なるが、さらに聴く所によれば日本に於ける米国御用船燃料石炭受負事業は過日の競争入札に於いて三井物産会社の手に帰したるより、今後米国御用船は長崎に寄港することなく、十中の八九は多分三池に寄港し同所に於いて三池炭を搭載するに至る」。”ヂツリス号”はDIX号のカタカナ読みのようにも思えますが、そうなると寄港年はずっと早くなります。

2025年4月20日日曜日

電源車デ形について⑤

東芝社報「三井鉱山三池港務所電源車 新設計蓄電池を搭載」(*1)より5回目、今回は記事の紹介ではなく、”ある疑問”を考察します。

まずは同記事より一枚、デ2号と20トン電車(号車は不明)の写真です。この写真、どことなく違和感があるのに気付かれるでしょうか。じつは電源車と電車の位置関係が、見慣れた姿とは逆になっています。

「三井鉱山三池港務所電源車 新設計蓄電池を搭載」(*1)より引用

たまたま😸この向きで撮られた可能性があるかもと疑い、同年代の『東芝レビュー』を見返してみたところ、もうひとつ写真が見つかりました。「三井鉱山三池港務所電気機関車用電源車」(*2)と題した短い記事ですが、ここでも電源車と電車の位置は逆になっています。なおこの写真、電源車に車号や社章がなく、車台にケーブルが這っているので試験中なのかもしれません。

「昭和37年における東芝技術の成果/三井鉱山三池港務所電気機関車用電源車」(*2)より引用

言うまでもないですが、見慣れているのは、電源車の後位(機器箱側)と20トン電車の後位(浜側)がケーブルで結ばれた姿です。お互いの電気連結栓もこの組み合わせ一択しか持ちません。


以下、はっきりとした資料がないため、あくまで推論となりますが、オリジナルな仕様としては、電源車は20トン電車の前後どちら側でも使用が可能だったのではないかと考えています。すなわち、”電源車・電車の両車とも前後に電気連結栓を備えていた”ということになります。以下、裏付けとなる物証を探してみます。

まずは電源車側から。写真はデ4号の前位をみたものですが、端梁の2位寄りに丸穴跡が3つ並んでいます。これは電気連結栓の取り付け跡ではないかと睨んでいます。


下の写真は電源車(後位側)の連結栓(旧タイプ)の取り付け方法です。立型の筒はケーブル収納の際の栓受け。前位側では連結器の解放テコが干渉しそうですが、元々、連結器は下作用式(上作用式には後年改造)でした。


電源車対応であった20トン電車(9号、11~12号)を観察すると、万田坑に保存された12号電車のみ、1位寄り(港側)のボンネットに連結栓の痕跡が残っています。前後は対角ではなく、対称の位置関係となるのは電源車も同様です。
なお、連結栓を避けていた標識灯が上にずれたままになっているのは12号の特徴。


参考までに、下の写真は12号電車3位寄りの通常の連結栓(旧タイプ)です。現在はコンパクトになりましたが、もともとはボンネットに直接取り付けられていました。


現在はステーションゼロに保存されている11号電車には、12号のような痕跡は確認できません。ところが『私鉄電気機関車ガイドブック』(*3)には前位側に電気連結栓がならんだ11号電車が掲載されています。資料としてはこれが決定的な物証となるでしょう。撮影日は1974(S49)年2月です。
なお、牽引される電源車の車号は不鮮明ですが、後位(機器箱側)床下に排障器が見えています。後位側が先頭になる場合があることの物証となります。

『私鉄電気機関車ガイドブック西日本編』より引用(*3)

以上、電源車・20トン電車の両頭仕様はほぼ間違いないと思うのですが、最初に述べたように明確に言及した資料が見つかりませんでした(*4)。また、すべての車両に共通していたのか、あるいは一部に限定されていたのかはよく分かりません。
はたして電源車を繋ぐ位置については、前後どちらかに特段のメリットがあるのか、素人目にみても??です。電源車の登場当初は、連結位置を変えなければならない使用状況を想定していたかもしれませんが、部品数が増えてしまうことは保守的にはデメリットになるのではないかと思います。
おそらくは、ある時期に連結方向が固定され、不要となった電気連結栓が撤去されたと思われるのですが、電源車電車双方ともそれらしい記事が見つからないのが不思議といえば不思議。


(*1)鵜沢正治・山司房太郎「三井鉱山三池港務所電源車 新設計蓄電池を搭載」『東芝レビュー』1963(S38)年10月 東京芝浦電気発行
(*2)『東芝レビュー』1963(S38)年3月 東京芝浦電気発行
(*3)杉田肇著 誠文堂新光社1977
(*4)間接的な言及となるが、11号電車の1967(S42)年2月の修繕記事に1位側(→前位)に電源車を連結した場合に電流計が指示しないので充電用メーンケーブル配線替えをおこなったとの記述がみられる。

2025年4月6日日曜日

三池の絵葉書から⑦ 四ツ山駅

マイコレクションから、今回は四ツ山坑の絵葉書🐱「北方より見たる四ツ山坑 Yotsuyama mine」山田屋本店撮影です。四ツ山坑絵葉書は東西南北の視点から豊富に発行されましたので、何度か取り上げていくことになるでしょう。

四ツ山坑は、揚炭坑口としては万田坑に次いで開鑿されました。第一立坑が1918(T7)年に開鑿に着手され1920(T9)年に着炭、1923(T12)年3月より操業を開始しています。『鉱業所沿革史』によれば、開坑の理由および目的として「主として海底の採炭および入気坑として三池港南方四ツ山の西麓海岸に新しく立坑を開鑿することとなったのが四ツ山立坑である」とあります。万田・宮浦の両坑道が西へと延びるつれて、万田坑は大断層にぶつかったこと、また宮浦坑については坑道距離が延びて、坑内環境の悪化により採炭効率が悪化していたこともあり、当時の海岸線ぎりぎりの場所に新規に開鑿されました。

絵葉書の中央に聳えるのは四ツ山第一立坑、坑口の直上に巻揚機を据えた立坑櫓は”タワーマシン(Tower Machine)”型と呼ばれます。鉄筋コンクリート製の櫓は152フィート10インチ(約47m)の高さがありました。四ツ山坑のシンボルとなる建造物です。絵葉書では分かり難いのですが、右手はすぐに海岸線、左手に少しだけ見える斜面は二頭山(四ツ山)の山裾です。海岸は選炭場からのボタ(硬)捨て場として次第に埋め立てられて、大島貯炭場や四ツ山社宅となりました。
ちなみに万田坑のような地上に巻揚機を設置したタイプは”グランドマシン(Grand Machine)”型です。絵葉書では第一坑に隠れていますが、第二立坑はグランドマシン型となっています。


写真は北側からの撮影なので、三池港船渠を背にして線路は手前が四山支線の終端側になります。四山支線は1923(T12)年3月開通、電化竣工も同日としており、これは四ツ山坑の開坑日と期日を合わせています。『鉱業所沿革史』に「鉄道の連絡少しく不便なり」と記されているように、 三池本線からの分岐線となっており、選炭場近くに四ツ山駅を設置しました。絵葉書では選炭場の向こう側に駅務所が設けられています。


絵葉書からは離れますが、三池鉄道には四ツ山駅を名乗った駅は3回登場しています。以下に簡単に整理してみました。
①四ツ山駅(Ⅰ)→1920(T9)年5月港駅に改称
②四ツ山坑開坑にともない1923(T12)年3月四ツ山駅(Ⅱ)を設置→1954(S29)年1月廃止
③1926(T15)年5月大島駅を設置→四ツ山駅(Ⅲ)

四山支線の四ツ山駅(Ⅱ)から、三池本線の四ツ山駅(Ⅲ)(←旧大島駅?)の改称時期が不明です。

2025年3月31日月曜日

デ3号電源車⑤

デ3号電源車を観察する5回目🐱

デ形のうち、機器更新されたのはデ3号のみだったため、該機になんらかのトラブルがあったのではと推測しましたが、『電源車履歴簿』(*1)を確認したところ、これは事実でした(当時、現地でもそれらしい話は聞いていました)。2005(H17)3月、架線充電中にショートにより大きく焼損し、現地では修理不可と判断されて機器類はM島電機製作所に送られたことが記されています。機器更新後、現場復帰するのは2009(H21)年2月からと、おもわぬ長期離脱でした。

また、デ3号の離脱によって車両のやりくりが逼迫し、たまたま新品に載せ替えたばかりだったデ3号の蓄電池をデ1デ4号に回すなどの対応に追われたことが記録されています。下の写真に見られるように、全般検査17-1(→2017-1)からまもなくの事故だったことが分かります。復帰から2年以上経っても機器箱だけが色鮮やか。


デザイン的には20トン電車との一体感は無くなり、趣味としては好き嫌いが分かれそうですが、2009年以降は通常のローテーションに戻ったため、稼働中の姿はたびたび目撃できました。せっかくなので下回りの写真を追加しておきましょう。

1位から3位の床下に引かれていた”鉄管”ですが、これは床下に吊るされていた充電抵抗器の短絡線(の名残り)ではないかと推測しています。充電抵抗器は架線電圧を充電電圧に下げるための機器です。先述の『電源車履歴簿』によれば、三池港駅で充電する場合、宮浦駅に比べて架線電圧が低くて不具合があるため、その対策として幾つかの抵抗器を経由しないための短絡線(および短絡スイッチ)を後付けにて設置したことが記されています。




(*1)炭鉱電車保存会所有

2025年3月23日日曜日

デ3号電源車④

特徴あるデ3号電源車の4回目🐱デ1号4号には見られなかった装備を取り上げます。

デ3号の後位は20トン電車との連結面になるため、単独での姿は貴重だと思います。写真は宮浦庫の前でデ1号と留置中のシーン(11号と12号電車は修理中)。妻面左隅に警告ランプ(赤=故障、橙=蓄電池容量低下)がありました。位置的に運転室から見えるようになっていると思われます。




デ3号独自の装備としてはもうひとつ。機器箱の側面に小扉があり、地上から操作する機器が収まっています。写真はその操作中の一コマ。アップにすると何となくわかるのですが、ボタン(ないしランプ)が縦に赤緑黄の順で並んでいます。


この機器については、いまのところ用途は不明です。何らかのモード変更か、ONOFFを切り替えているように見えますが、デ1デ4号には見られない操作です。

デ3号電源車③

私事。先日(2025.3.9)に 万田坑の炭鉱電車を見て来ました🐱
この日はちょうど万田坑スプリングフェスタの開催日にあたり、出店やイベントなどで賑わっていました。おもえば、前年2024年3月10日のフェスタで12号18号電車のお披露目が行われ、4月14日から始まった12号電車の定期運転は間もなく1年を迎えます。”電気機関車の動態保存”というハードルを越えて、安定運転を続けてきた関係者の方には感謝の思いが尽きません。
今回のフェスタでは、電源車の中身(;゚Д゚)がクイズとなっていましたので、親子連れの見学者が次々と訪れていました。18号の運転室も行列が出来るほどの盛況。今後も”荒尾市のお宝”として炭鉱電車を使ったイベントが企画されることが期待できますね。荒尾市で”炭鉱電車でこんなことがしたい”という企画募集をしてみてはいかがでしょうか。

デ3号電源車の3回目。今回はデ3号の細部を観察してみます。


デ形は浜側(→貨車を連結する側)を前位とします。右側面はラストランイベントからで、当日は絶好の日和でした。電池箱は他号車と変わりありませんが、キュービックな機器箱と、すっきりとした床下が特徴です。また更新前と比べると、妻面1位側のステップは増設、逆に後位妻面のステップは撤去されたことが確認できます。

更新前のデ3号の姿(デ3号電源車②)




左側面は現役時代の写真から。こちらは側ブレーキのある側面です。よく見ると、てこ止め装置はラック式となっていますが、ピン穴がそのまま残っています。また、手すりの塗り分けがデ1号とは異なっています。


デ3号の特徴は機器箱に集約されます。機器箱は3分割されており、天盤は跳ね上げ、内扉は観音開きするようです。天盤は通風を兼ねているのか二重となっています。内扉は中扉に小、左扉に縦長の窓(ないし液晶?)があるのが気になりますが、いい写真を撮っていなかったので用途や詳細が不明なのは悔やまれます。また、機器箱に埋め込んだ銀色カバーが見えますが、これも何の機器だったのでしょう。
機器箱の後位妻面については、天蓋のヒンジと別付けの銀色カバーがかなり目立っています。これは別途で取り上げます。




デ3号の床下を覗きます。制動装置はデ形共通の直通空気ブレーキとなっており、装備としてはシリンダのみです。デ形のブレーキ装置については、すでにデ1号電源車⑧で取り上げました。
https://ushiyan-tantetsu.blogspot.com/2024/07/1.html