2024年5月27日月曜日

電源車デ形について②

前記事はこちらになります。

東芝社報より「三井鉱山三池港務所電源車 新設計蓄電池を搭載」(*1)から、電源車デ形についての2回目、「電源車を利用した際のおもな利点」を読んでみます。


この記事は、電源車全般に加えて三池港務所の事情にも触れており、当時の蒸気機関車の使用状況のまたとない資料となっています。蒸気機関車は宮浦駅周辺の工場引込線の入換が主な仕業で、宮浦操車場(電化済み)と工場線(無架線)の間をつなぐ役目になります。
以下、長い引用になりますがメリットとして8項目(プラス1)があげられています。

「老朽化した蒸気機関車を全廃することができて運転費、保守費が軽減された」

蒸気機関車の運転コストをなくすことが電源車導入の第一義なので、このことが筆頭に書かれています。保守作業が無くなることも大きなメリットでした。万田駅の汽関庫からトコトコ回送してくるのも時代に合わなくなったようで。

「ボイラの灰落としによる無駄な時間がなくなり作業効率が向上した」

これは後で述べる⑥とも関係しますが、蒸気機関車特有の仕業前後の整備作業がなくなるメリットです。実働時間が延び、かつ人員の削減につながります。

「本線と引込線との接合部でその都度蒸気機関車と電気機関車のツナギ替えをおこなう必要がなくなり、また在来の電気機関車を有効に運転できるので就業効率が向上した」

蒸気機関車の主な用途は、工場内の入換(同じような状況の三池浜駅もか)でしたが、本線(宮浦操車場)から無架線の工場内まで機関車付け替えなしで電気機関車が入線できるようになりました。

「従来使用していた蒸気機関車はけん引力が小さく特定の場所では重連運転しなければならなかったが、電気機関車に代わったためにけん引力が大きくなり、重連運転の必要がなくなったので運搬効率が向上した」

SL重連が必要だったという特定の場所、気になりますね。宮浦駅の東側、化学工場側は一番奥のガス工場まで緩やかな上り勾配ですが、はたして重連を必要とするまでだったのか。わたしは宮浦駅の西側、小高くなった宮浦坑への引込線かなと思っています。いまは線路跡の痕跡が無いのでイメージし辛いのですが、配線図によれば現在の宮浦石炭記念公園あたりまで線路が引き込まれていました。

「架線区間で万一停電が起きても電源車の電池が電源となり運転を継続することができるので、作業に支障を来すことが無く便利である」

停電となることがしばしばあったのかな🙀

「必要な時にいつでも即座に使用することができて便利である」

一般的には蒸気機関車の運転準備(石炭を焚いて缶圧が上がるまで)に2時間を要するとされます。

「蒸気機関車とは異なり機関助手は不要で人員の削減ができる」

これは①とも関係していますが、人員コストの面でのメリットになります。

「煤煙が一掃されたので運転手、信号手や沿線の人々は汚れないため大喜びであり環境が著しく改善された」

無煙化の一般的なメリットです。宮浦駅周囲にはあまり民家はありませんが。
ちなみに鹿児島本線の無煙化は1974(S49)年でした。大牟田荒尾入換用の蒸気機関車(C11形)が残りました。

「この外電源車を使用すると隣り合っている架線区間の間に無架線区間が挟まっていて普通電気機関車のままでは隣りに移動できない場合でも電源車が連結されていると容易に移動できる」

これは③と同様な内容になります。機関車付け替えが無くなったメリットが繰り返して強調されています。



(*1)鵜沢正治・山司房太郎『東芝レビュー1963(S38)年10月号』東京芝浦電気発行


2024年5月20日月曜日

炭鉱電車ステーションゼロはこう行く

 2024(R6)年4月20日にオープンした”炭鉱電車ステーションゼロ”(以下、ステーションゼロと略)。追って当面は毎月第3土日の公開(10:00~16:00)と発表されました。会場の様子はSNSでボチボチとあがってきましたが、当初は”どこにあるのかよく分からない”という声もチラホラ。ようやく待望の公式サイトがアップされ、駐車場の案内が加わりました。

白石ホールディングスHP(ステーションゼロ)

白石グループインスタグラム

グーグルマップでは最寄り駅を西鉄新栄町駅とすると最短850mと出ます。徒歩で12分。ちなみに大牟田駅からだと1.5km、わたしならレンタサイクルの一択かな。適当なバス路線はありません。

さっさと炭鉱電車見て帰るわ!というセッカチな御仁をのぞき、折角なら三池鉄道の歴史の一片を見てほしいと思います。そこで廃線跡の寄り道資料を作ってみました。宮浦~三池浜間の通称「浜線」、残念ながら線路跡を歩くことは出来ませんが(パイプライン敷地として活用)、築堤区間のため多くの橋梁が架けられています。
以下、新栄町駅から7つの橋梁を確認しながらステーションゼロまで辿ってみましょう。



①栄町架道橋


グーグルストリートビューより(新栄町駅側)

グーグルストリートビューより(大牟田駅側)

新栄町駅から南(大牟田駅)方向に歩くと、最初に着く架道橋です。くぐると大牟田市栄町となります。大牟田の商店街の一角ということからか、橋桁はギリシャ?風なモニュメントで両側を挟まれ、橋台もストリートアートの壁面として隠されています。遠目では鉄道跡に気付けないもかもしれません。


ところで、栄町には1970(S45)年4月まで西鉄栄町駅(新栄町駅開業につき廃止)がありました。以下のリンクは西鉄HPより、駅前にあった栄町架道橋(1970年)がばっちり写っています。それにしても駅前は人と車が多い!

西鉄Webミュージアム/沿線風景アーカイブス/栄町


②紡績前架道橋


グーグルストリートビューより(新栄町駅側)

グーグルストリートビューより(大牟田駅側)

”紡績”とは曰くありげな名称、現在の新栄町駅前はかつて三池紡績(のちに鐘淵紡績三池工場)でした。1891(M24)年より操業とあり浜線敷設と同時期になります。当初は九州最大の紡績工場でした。
この架道橋の見どころはふたつ。まずは橋脚に支えられて長短に分かれた橋桁。おそらくですが、広い方は軌道線を越えていたと思われます。1878(M11)年に大浦坑~船積場を結ぶ馬車軌道が敷設されました。三池鉄道の始祖的存在ですが、1899(M32)年に輸送ルートの変更により大部分は廃止されましたが、この軌道本線より紡績工場の引込線が分岐していました。大牟田港との間で綿花やボイラーの燃料炭を運び、1938(S13)年まで使用されています。
もうひとつの見どころは、橋台と橋脚の床石(橋桁を承ける石材)が高低に2つあることです。低い方は1891(M24)年11月敷設された際の当初の位置のもの。その後、九州鉄道(現在の西鉄大牟田線)の栄町延伸(1938(S13)年)により、三池鉄道側が嵩上げ工事を施して1939(S14)年8月に竣工しています。おそらく栄町架道橋にも同様の遺構があると予想されるのですが・・・

橋のたもとにあった"ガード下食堂"はちょっと知られていました。写真でみるように、建屋の一部が橋脚に食い込むような面白い店屋でした。橋向こうが新栄町駅の駅前(紡績工場跡)になります。名物はちゃんぽんで、店先では万十も売ってましたね。




③明治町架道橋


グーグルストリートビューより(新栄町駅側)


グーグルストリートビューより(大牟田駅側)

片側2車線の県道18号を越える長いスパンの架道橋です。明治町はこのあたりの町名ですが、橋をくぐって大牟田川(大正橋)をわたると大正町。ちなみに大牟田には明治大正昭和まで元号の町名が揃っています。
古い地図ではこの区間は築堤となっており、架道橋は後から架けられたもので、橋台はコンクリートとなっています。橋桁には三池製作所1954(S29)年9月竣工の銘板が見つかります。三作がまだ三井鉱山の事業所だった頃。また、明治町架道橋がまだ無かった頃には、大牟田川川岸にあった横須坑木倉庫に下りていく引込線がこのあたりから分岐していました。



④№1開渠


グーグルストリートビューより(新栄町駅側)

グーグルストリートビューより(大牟田駅側)

名称は開渠となっていますが、実態は蓋がされて暗渠となっています。人が通れる程の幅しかありません。築堤と大牟田川とのあいだが、かつての横須坑木倉庫跡。どうやら水中貯木場があったらしく、暗渠はそこに通じる水路でした。




⑤稲荷川橋梁


この区間では河川を越える唯一の橋梁です。稲荷川は大部分が暗渠ですが、この橋梁付近のみ姿を現しています。残念ながら、煉瓦積みの橋台に近づく手段がありません。




⑥横須架道橋


グーグルストリートビューより(新栄町駅側)

グーグルストリートビューより(大牟田駅側)

”横須”はかつての横須村に由来しますが、町名としては継がれませんでした。越えていく道路は大牟田川の中島橋に通じています。この中島橋は官営の馬車軌道時代に大牟田川を堰き止めた水門(第一水門)があったところで、川中の”中島”に指揮所がありました。中島橋の上流側はかつての石炭船積場(のちに坑木置場となった)となり、いまも川幅が広いのはその名残と思われます。
さて橋台をみると、橋桁の床石が2線分並んでいます。新栄町側は本線跡ですが、大牟田川側は横須船積場の高架桟橋へと通じていた線路跡になります。ポイントはさきほどの稲荷川橋梁とのあいだにあったようです。三池港の開港以前は、船渠となっていた横須船積場にて石炭船積みが行われました。高架桟橋や船渠の遺構はありませんが、ステーションゼロそばの明治町ポンプ場が船渠跡になります。




⑦北磯架道橋


グーグルストリートビューより(新栄町駅側)

架道橋上より、左に振り向くとステーションゼロ

ステーションゼロの東端に接する架道橋です。住吉橋(大牟田川)に通じる道路を越えていますが、コンクリート桁なので道路からはほとんど気付かないでしょう。交通量がありますが、明治町架道橋同様、あとから架けられたものです。写真は北磯架道橋を三池浜駅跡側から撮ったもの。橋上には枕木が残っていました。撮影の立ち位置は、今はステーションゼロの敷地内になります。


以上、簡単ながら浜線の橋梁跡を辿りながらステーションゼロへのガイドとしました。この区間は世界遺産の対象とはならなかったものの、三池鉄道最初の開通区間として重要な鉄道遺産と思います。煉瓦積みの橋台のほかにも、築堤を支える石積みなど見どころがあります。なお、ステーションゼロ入口前の道路は、かつて三池浜駅の手前にあった踏切跡です。

2024年4月30日火曜日

万田坑の新設充電装置について

更新間隔あいて、どーもすいません。
この間、いろいろと重要な動きがありましたので、一先ずまとめます。

まずは万田坑の保存機から。
2024年2月13日万田坑12号+デ1、充電装置取付工事開始(2月16日より試運転)
2024年3月10日万田坑12号+デ1、万田坑スプリングフェスタにて公開運転(3回)
2024年4月14日万田坑12号+デ1、定期運転公開初日(1日6回)
以降、定期運転については第2第4日曜日の運転が発表されています。

充電装置の取付けについては、すでに荒尾市よりアナウンス(2023年8月)されていたので予定通りの施行です。

もうひとつは非公表(というか秘匿)されていた情報で、大牟田市の白石ホールディングス株式会社(大牟田市新開町)での炭鉱電車保存事業です。保存対象となったのは11号と19号電車。
2023年1月14日から15日にかけて宮浦駅より大牟田市北磯町へ陸送(非公表)。
以降、車輛はブルーシートを掛けて仮保管。ブルーシート時代はわたしも一応見ています( ´艸`)

おおよそ1年をかけて、車庫やギャラリー、ショップの各棟建設、およびレイル敷設(宮浦駅で使用されたレイルとポイント、枕木を再利用)が施行され、2024年3月19日に竣工式。施設名は「炭鉱電車ステーションゼロ」。ゼロ(0)は、かつてこの北磯町にあった三池浜駅(0km鉄道起点)に由来します。

2024年4月12日炭鉱電車ステーションゼロ、完成記念式典。ディーゼル機関車(TMC200C形)による19号牽引を披露。新聞各紙報道あり、以降、情報公開が解禁。
2024年4月20日炭鉱電車ステーションゼロ、一般公開初日(3回運転)。
5月6月は第3土日の公開が発表されています(4月現在)。

ステーションゼロ、および万田坑の炭鉱電車事業については、鉄道車両保存事業を手掛ける㈱ワンマイルがハードソフト両面で請け負っており、実際の運転も担当しているとのことです。現時点では両所とも一般公開を始めたばかりで手探り感もありますが、今後イベントなどが活発化していくことが期待できますね。



閑話休題。12号電車デ1の充電装置について解説。
定期運転終了後の充電装置を見たままリポします(わたしは電気の素人なのでツッコミどころ満載)。

<外部機器>
これは巧いな~と思ったのは、元々あった12号解説板の裏側を利用しています。まるで最初からの計画ではと思えるほどしっくりとして目立ちません。すぐ近くの柱に設置された分電盤(照明用)からのAC100Vがまずこの外部機器(タイマー)に。さらに外部機器からの制御線を合わせた1本のケーブルが12号電車の床下に導かれています。



12号電車の床下を見ています。ちょうど連結器の裏側に当たります。写真はケーブルが巻き取られた状態で、外部機器に繋げるソケットは車輌側に収納されています。


<車輛機器>
12号電車の2位側ボンネット(電源車側)に車輛機器が収まっていました。こちらのボンネットは大半を主抵抗器が占めていますが、正面側とのスペースにコンパクトに収まっています(写真は機器カバーを外しています)。


参考までに機器設置前のボンネット内部はこんな感じでした(写真は9号電車)。うまい具合に都合よいスペースが空いていましたね。


新設機器ですが、メーカーと型式があるのですぐヒットしました。横浜にあるテクシオ・テクノロジー社製のスイッチング直流安定化電源(PSU600-2.6)でした。型式の数字が出力を表していて、入力AC100→出力DC600V-2.6A、これを並列配置して出力DC600V-5.2Aとしています(一応、4基まで増設可能に見えます)。下世話ですが、一基30万近いお値段でした。
出力600Vは架線電圧と同じですが、僅か5Aとなると(九電の契約アンペアの制限?)、デ1号の空充電から満充電までは一月以上かかる計算となると思います。ただ、実際には公開運転程度ではバッテリーの消費がそれほどではないため、ゆっくりな充電で時間的には問題ないとのことです(むしろバッテリーには優しい)。

<運転室>
充電(正しくは準備状態)での運転室内を見ています。外部機器とケーブルが繋がっているので、12号デ1号ともブレーキをかけています。


架線-電池の切替レバースイッチは、真ん中の”切り”の位置です。上の写真で主電圧計は0を指しています。レバーについては、バッテリー運転中は下(=電池)、運転停止中は上(=架線)にしていました。”架線”は切りと同意なので、万一のいたずら侵入で機関車を動かさないための処置でしょうか。あと、青ケーブルが追加されているのは気になります。このケーブルはボンネット内の基板配線に繋がっている?


ちなみにパンタグラフは畳まれたままです。本来、電源車の充電はパンタグラフを経由して行われていました。今回の機器設置の工事中の写真を見ると、わざわざパンタグラフを上げたシーンがあったので、配線的に充電時のみ上がるかもと期待しましたが、これは当てが外れました。逆に言うと、構造上は不必要(=お飾り)となったので、パンタグラフをあげたまま、バッテリーで走ることも出来るのか?←あくまで余談です。

以上、見たまま。おそらく配線等にも手が加えられていると思いますが、この辺りは素人には理解できません。ちなみにデ1号は変化を確認できませんでした。工事開始前は、12号電車に大きく手が加えられるのかと危惧しましたが、まったくの杞憂に終わりました。
施工業者のセンスが光っています。

2024年2月15日木曜日

三池の絵葉書から①

しばらく更新が滞りましたが、この間、2024(R6)年1月に万田坑にて『千本桜展2.0~桜京の夢』(*1)の開催がありました。荒尾市は万田坑でのイベント開催に積極的ですね。この他、わたしには疎いジャンルですが、コスプレイヤーやアイドル撮影会などもしばしば催されおり、万田坑の知名度のアップにつながっています。このおかげか、炭鉱電車12号と18号の姿もSNSで多く見かけるようになりました。つまりは別嬪さんの背景として😻


マイコレクションから万田坑の古絵葉書をひとつ。三池炭鉱の数ある坑口の中でも、万田坑については群を抜いて発行数が多いのは間違いないでしょう。威容をほこる第一立坑を中央に配し、万田坑全体を見渡す構図は定番のひとつです。


以下、絵葉書に解説を少々。
この構図は、万田坑を西側(荒尾市原万田)から見ています。すこし高い位置からの撮影で、現在も小高い丘となっていて場所は特定できますが、笹藪となっていて見通すことは難しいのが残念。
手前の線路は三池本線、右手が三池港、左手が宮原方面です。第一立坑巻上機室そばに見える建屋が初代万田駅。よく見ると、そばには給炭台と水タンク。その奥の選炭場は、今は12号と18号電車が保存されている位置になります。
なお、この絵葉書は、万田駅構内は未電化なものの、8トン炭車の姿があるので、1905(M38)~1911(M44)年頃の撮影ではないかと推測されます。


三池炭鉱の絵葉書は非常に多く発行されており、コレクションの愉しみとなります。これら絵葉書は、おそらく物見遊山のお土産として大牟田駅などで売られていたもののほか、三池港に上陸した外国船員の日本土産となったことでしょう。三池の産業遺産観光も定着した感がありますが、三池炭鉱が”遺産(heritage)”となる以前から、もともと産業観光という一面があったのではないかと思っています。


(*1)荒尾市HPより『千本桜展2.0~桜京の夢』チラシ(PDF)

2024年1月6日土曜日

わたしが見た炭鉱電車抄録③ 1997~2020編

この記事は『HP炭鉄』からのサルベージ&リペアになります。
なお抄録として書いたので写真は拡大しません。

わたしが見た炭鉱電車③は、1997~2020年編となります。正式名称は、1997(H9)年4月より”三井東圧化学専用鉄道”、同年10月に社名変更があり”三井化学専用鉄道”となりました。路線は旧旭町線1.8キロ(宮浦~旭町)のみが引き継がれ、三井化学大牟田工場関連の貨物のみを扱うこととなりました。三池鉄道128年の歴史のうち、最後の23年間にあたります。

わたしは1997(H9)年10月を最後に1998~2001年は訪問をしていませんので、この間の動向については分からない部分があります。2002(H14)年に訪問を再開したのは、『HP炭鉄』を始めるにあたっての情報収集のためでしたが、以降、毎年1~3回の訪問を重ねました。2007(H19)年からは大牟田市が所有する電車4両が一般公開されるようになったため、公開日のある11月が定例の訪問月となりました。

 三池本線最後の運転は、大牟田市が譲受した電車4両(三井化学内に仮保管)と、三井化学が引き継いだ電車5両、貨車7両(ハト形、ヒト形、検形)および保線車両(トラック型モーターカ)、部品取りとした電車3両の回送をもって、1997(H9)年中に終了した模様です。わたしが同年10月に三池港駅を訪れた時点で残っていた車輌はなく、レイル撤去が本線を遡るように始まっていました。

 <JR継走>旭町→宮浦の化成品タンク列車

三井石炭鉱業専用鉄道より引き継がれた宮浦駅に隣接する三井化学大牟田工場の化成品輸送です。定期的な濃硝酸と液化塩素の到着貨物でした。タンク車の陣容は変わらず、濃硝酸はタキ7500形、タキ10450形、タキ29000形、タキ29100形、液化塩素はタキ5450形が用いられていました。かつては様々な発駅があったものの、正確にはいつ頃からの事なのか分からなかったのですが、濃硝酸は三菱化成から(黒崎駅発)、液化塩素は旭化成工業から(南延岡駅発)の2社に絞られました。


旧旭町線をゆく19号のタンク車編成。鹿児島本線との並走区間です。


浅牟田町108号踏切をゆく濃硝酸タンク車。
この踏切は大牟田川の流路変更により廃止されました。



<JR継走>旭町→宮浦の化成品コンテナ列車

従前のタンク車がタンクコンテナに置き換えられたものです。タンク車の老朽化、およびJRのコンテナ化推進により、まず2009(H21)年6月(頃か?)に濃硝酸タンク車がコンテナ(三菱化学物流所有 UT13C形=通称”銀タンコ”)に置き換えられ、同年12月には液化塩素タンク車もコンテナ(日本陸運産業所有 UT13C形=通称”黄タンコ”)に置き換えられました。これ以降、使用車両はJR貨物のコキ200形(2個積み)となりました。2020(R2)年5月の鉄道廃止までコンテナ輸送が行われ、最終列車は銀タンコ5両の返却列車となりました。なお、鉄道廃止の直接の理由は、三菱化学(←三菱化成)の硝酸製造の廃止によります。


宮浦駅に到着した濃硝酸銀タンコ編成。


大牟田工場への入出場はコキ200形1両単位となり入換頻度が増えました。


仮屋川操車場にて液化塩素の黄タンコ。


浅牟田町108号踏切をゆく黄タンコ。


<JR継走>宮浦→旭町の海上コンテナ車列車

大牟田工場で製造されてドラム缶詰めされた化成品の、海上ドライコンテナによる発送貨物です。なおドラム缶の中身は、TDIと思われるポリウレタン半製品と推測されます。北九州貨物ターミナルから日明コンテナ埠頭に陸送、船舶によって主に中国へ輸出されていたようです(北九州貨物ターミナルからの物流については未確認)。このコンテナ輸送は、1999(H11)年12月の試験輸送からスタートし、宮浦駅の南側には専用のコンテナホームが新設されて、大型フォークリフトが配置されています。当初はコキ106形に海上コンテナ1個積みとしていましたが、2003(H15)年頃にはコキ200形に2個積みとしています(以降も稀にコキ106を使用)。
 2002(H14)~07(H19)年は国土交通省が推進したモーダルシフト実験の対象となるなど注目をあつめた輸送となり、わたしの見たかぎりでは、最大でコキ200×5両(コンテナ10個)が組まれるなど、活発な輸送が行われた時期がありました。ただし、わたしの印象では2008(H20)年頃より次第に減少に転じたとみられ、2~3両程度の短編成、かつ低頻度運転となっていました。輸送が低調となった事情は不明なのですが、その後、一足早く2017(H29)年初頭に廃止されたと思われます。


宮浦石炭記念公園より。
入換都合でタキ5450形が挟まっています。


旧勝立線跡ホームより。
コンテナ車を牽き出します。



<社内>宮浦⇔旭町の錆取り列車

三井化学大牟田工場が5月半ば~6月半ばにかけて定期メンテナンスに入り、列車が運休される期間に、週一程度のペースで運転された列車(コキ200牽引や、単機)です。社内での正式名称は不明ですが、趣味人の間では”錆取り運転”と呼ばれ、おそらく信号や踏切の保守作業であったと思われます。残念ながら、わたしは目撃出来ませんでした。



<社内>電車交代

宮浦車庫との間で走った45トン電車および20トン電車の交代運転です。通常、宮浦構内には45トン電車1両(宮浦~旭町用)および20トン電車1両(工場入換用)が配置されましたが、2週間程度の間隔でそれぞれローテーションが行われました。なかなかタイミングが読めない運転でしたが、わたしも一度だけ目撃出来ました。


三坑町踏切にて、電車交代のため車庫に引き上げます。



<社内>コンテナ積替え

列車というわけではありませんが、2011(H23)年3月”コキ200問題”と呼ばれた空コンテナ搭載禁止(成田線での脱線事故で判明。原因はコキ200の台車問題)に対処するため、コキ104・106形への空コンテナ積替え作業です。大牟田工場にて荷卸しを終え、”空コンテナ”を積んで戻ってきたコキ200形から、コンテナホームにて一旦コンテナを降ろし、コキ104・コキ106形へ再び積み直すという作業でした。この積替えのため、JR貨物よりトップリフターが配置されています。積替え作業は、2011(H23)年11月より始まり、2013(H25)年2月に台車改良されたコキ200形の復帰により解消しました。


コンテナホームにて銀タンコ積み替え。
空車コキは、空コンテナの搭載用。


黄タンコも同じく積み替えられます。


2023年12月4日月曜日

電源車デ形について①

12号電車+デ1号は、2023年11月3日の万田坑オータムフェスタにおいて、予定通りの3回の展示運転を披露しました。2022年9月29日保守運転の終了以来、充電は行っていないと思われるので、素人考えながら意外と持つものだなと思ったりしました。


閑話休題。
20トン電車+電源車は、架線集電と蓄電池給電を巧みに切り替えできることから、”ハイブリッド機関車”と評する方もいますが(はたして用語として正しいのか?)、無架線となっている三井化学大牟田工場の引込線をパンタグラフを下げたまま行き来する姿は鉄道ファンの注目の的でした。写真は、宮浦駅にてタキ5450形をつれて無架線下をゆく11号電車。


ところで、このような電源車運転については、しばしば次のような説明が散見されます。”火気厳禁の化学工場入換のためバッテリー機関車が使用されている”とされ、具体的な事由については”引火性のある薬品等に架線からのスパークを防ぐ”ことにあるとされます。同じような記述はウィキペディアにも書かれており、一見尤もらしい解説のように思えますが、バッテリー機関車の”必要性”を明記した資料は、わたしは今のところ見つけていません。実のところ、電源車の導入以前は、無架線の化学工場入換には火気の塊のような蒸気機関車が長年活躍していました。

電源車の導入過程については、幸いなことに製造元の東芝より「三井鉱山三池港務所電源車 新設計蓄電池を装備」*1)として社報にリポートされており大いに参考になります。以降、この資料をもとに何回かに分けて取り上げていきたいと思います。

まずは「まえがき」より。

「本線から分岐している各工場の引込線には蒸気機関車を使用していたが、蒸気機関車が段々老朽化してきたので保守修繕に大変手間がかかる上毎日ボイラーの灰落しを行なうため実働時間が短くなり不利な面が多かった」

1962(S37)年当時、在籍していた蒸気機関車は、1902(M35)~1907(M40)年H.K.porter製の25トンB型タンク機関車です。三池ではもっとも台数を揃えたクラス(8~16号)で、5台ほどが残っていたようですが、いずれも車齢60年近い古典機となっており、保守に苦労したことがうかがえます。

「蒸気機関車を運転する地区は化学関係の工場が多く、このあたりは建築限界一ぱいに複雑な建造物が多数設置されているので、簡単な考えから架線を延長しようとすれば既設建造物に多額の改修費を必要としかつ保安の上からも問題がある」

無架線の引込線については『三井鉱山五十年史稿』*2)に言及があり、全線電化完了の際にも「染料工場構内等特殊区域を除いて」として非電化のまま取り置かれたことが記されています。事情については詳細に触れていません。なお、染料工場はのちの三井化学大牟田工場のこと。

老朽化した蒸気機関車の置き換えとしては内燃機関車の導入が一般的と思われますが、この点については「内燃機関車は運転費、保守費などを含めて考えてみた場合あまり得策ではない」とあっさりと除外されています。そこで「なんとか従来の電気機関車を有効に使用してこれらの問題が解決する方法が無いか種々検討したところ電源車がもっとも適当ではないか」としています。

電源車開発の流れはいささか唐突な感もしますが、リポートは触れてはいないものの、架線と蓄電池の両用対応という点からは、鉱山用機関車(Mining-Locomotive)の技術応用という面があるように推測します。一般には「複式機関車」と称するようですが(*3)、電気機関車に蓄電池車を増結、もしくは蓄電池機関車に集電器を載せた例を鉱山誌等ではいくつか見つけることが出来ます。

電源車デ形の場合、まずは老朽化した蒸気機関車の置換えという目的があり、電源車対応に改造可能な電気機関車(20トン電車)が複数台あったという条件と合わせて、20トン電車+電源車という本邦では珍しい運転方法が採用されたと見るべきと思われます。なお、この東芝のリポートは電源車の開発後一年を経過した際にまとめられたものですが(この間データ採取が行われた)、使用成績はすこぶる良好で、以降58年間にわたり運転が続くことになりました。

宮浦駅、
無架線のウレタン線(海上コンテナ線)における12号電車。

(*1)鵜沢正治・山司房太郎『東芝レビュー1963(S38)年10月号』東京芝浦電気発行
(*2)三井鉱山五十年史編纂室1943(S18)年
(*3)たとえば「坑内用蓄電池機関車の構造形式の概要及び蓄電池種類の比較」『グルックアウフ1953(S28)年7月号』日本石炭協会発行では、FL(Fahrdraht-Ladung)複式機関車として紹介されています。なお東芝社報ではトロリーバッテリ機関車という用語が見られます。

2023年11月3日金曜日

わたしが見た炭鉱電車抄録② 1990~1997編

 この記事は『HP炭鉄』からのサルベージ&リペアになります。三井石炭鉱業専用鉄道時代、最後の7年間の1990~1997年、JR継走貨物編。なお抄録として書いたので、写真は拡大しません。


<JR継走>三池港→旭町の石炭列車

平成筑豊鉄道金田駅に接続していた三井鉱山田川セメント工場向けの燃料炭輸送です。三井鉱山の私有貨車ホサ8100形、JR貨物セキ6000形(のちにセキ8000形に交代)が用いられて、仮屋川操車場を介して大牟田駅に継走されました。三池鉄道線内は、午前に旭町駅より空車を三池港駅まで引き上げ、午後に三池港駅より発送するというダイヤでした。
田川工場の操業は1964(S39)年から、石炭専焼キルンのために三池炭の受け入れを行っています(荒尾→金田というルートだったようです)。いったん、1977(S52)年2月に廃止されますが、すぐに1979(S54)年5月復活、継走駅も大牟田駅に変更されました。当初は、国鉄セラ1形とセキ6000形が用いられ、1983(S58)年からは種別変更されたホサ8100形が加わりました。1992(H4)年10月、田川工場が石炭調達先を変更したことにより廃止。1992年というと、わたしが足繁く撮ったのが最終年となりました。この時点では扱い量は増加傾向にあると聞いていたのですが・・・
列車廃止により、宮浦~四ツ山間の貨物列車が消滅し、1995(H7)年頃に上り線撤去が行われました(万田~四ツ山間の単線化)。

三池港駅を出発した発送列車。ホサ8100で統一。

西原駅を通過する先送り列車。

原万田駅を通過した返空列車。ホサ8100+セキ8000混成。


<JR継走>宮浦→三池浜の化成品タンク車列車

三池浜駅にあった三井バーディシエ染料へ到着する化成品輸送です。浜貯炭場の手前に短い荷役線がありました。三池浜駅に接続していた専用線の多くは、1970~1980年代に次々と廃止されましたが、同社の1978(S53)年の操業により新たに始まった輸送でした。20トン電車+電源車の仕業が組まれていましたが、運転頻度は低く、わたしは目撃できないまま1993(H5)年頃に廃止された模様です。輸送終了により、三池浜~宮浦(通称、浜線)の列車設定がなくなり、1996(H8)年頃には三池浜駅および浜線のレイルが撤去されました。


<JR継走>旭町⇔宮浦の化成品タンク車列車

宮浦駅に隣接した三井東圧化学大牟田工場に発着した化成品輸送です。取扱い量のメインを占めるのは、定期的な濃硝酸と液化塩素の到着貨物で、濃硝酸専用のタキ7500、タキ10450、タキ29000、タキ29100形、液化塩素専用のタキ5400、タキ5450形が見られました。発送貨物としてはTDI(ウレタン素材)があり、タキ4850、タキ19600形が用いられましたが、輸送頻度は低くかったように思います。なお、化成品は他の品目も不定期な輸送があったようです。わたしが見たのはタキ8550形だけでしたが、あとから知ったところではタキ3900形のフェノールはギリギリ間に合っていたかも知れません。
濃硝酸と液化塩素の2品目については、1997(H9)年4月以降も輸送が継続しました。

宮浦駅にてタンク車の入換。

旭町線をゆくタンク車編成。

TDI専用タンク車が出入りしていた引込線。


2023年10月29日日曜日

わたしが見た炭鉱電車抄録① 1990~1997編

当ブログの仕様にも漸く慣れてきたので、今後は『HP炭鉄』からサルベージ&リペアした記事もアップしていきます。


”わたしが見た炭鉱電車”というと、エラソーで恐縮ですが、かれこれ三池鉄道との付き合いも30年を越えましたので、わたしなりにヒストリーを振り返ってみたいと思います。正直言えば、古いものから記憶が曖昧になりかけていますので、備忘録を書いておかないと永久に忘れそうという深刻な理由もあります。

わたしが本格的に撮り出したのは1990(H2)年からですが、まずは1997(H9)年までをまとめてみました。より正確にいえば「三井石炭鉱業専用鉄道」の時代であり、1997(H9)年3月の三池炭鉱閉山までの7年間の記録となります。この頃は年1~2回訪問してたな。

本題の前に、わたしが訪問する以前の直近10年に無くなっていた事例を参考に揚げました。資料は訪問時に頂いたプリント『三池炭鉱専用鉄道の沿革』から。

 1984(S59)年6月三井東圧横須工場全線閉鎖
 1984(S59)年10月通勤列車運行終了(最終時は万田線・玉名線)
 1986(S61)年4月三井コークスAB炉廃止(コークス炉全面廃止)
 1987(S62)年11月電気化学全線廃止

鉄道ファンには俄然、通勤列車に注目が集まり、とくに1980年代は多くの記録が発表されて目の愉しみとなります。個人的に悔やまれるのは、コークス炉全廃後の訪問だったということでしょうか。おそらく三池港→宮浦の原料炭、宮浦→三池港のコークスといった三池本線を生かした社内輸送が行われたはずですが、当然ながら間に合いませんでした。本線を行き交う石炭列車を生で見てみたかった・・・

下図は、凡そ1990(H2)年時点として作成した三池鉄道の路線図になります。すでに貨物列車の運行は、三池港駅と宮浦駅のそれぞれの局地輸送がメインとなっており、三池本線も名ばかりの状態となっていました。とはいえ最後の輝きを見ることができたのは、つくづく幸運だったと今更ながら思います。
なお、この記事は抄録として書いたので写真は拡大しません。悪しからず。


①<社内貨物>三池浜→三池港の石炭列車

三池浜駅の奥にあった浜貯炭場にて石炭を積込み、三池港駅へと運転された石炭列車です。三池本線を全通する最後の設定列車だったと思われます。浜貯炭場ではショベルローダーによる炭車直積みが行われていました。この石炭はどこから?詳細は不明ですが、貯炭場には荷卸しの設備がないので、おそらく三池港からダンプカーで持ち込まれていたと推測しています。社内では「シフト輸送」と称していたようですが、1990年中に廃止されましたので、偶然にも目撃できたのはラッキーでした。写真は浜貯炭場にならぶセナ炭車、靴が黒い泥だらけになりました。



②<社内貨物>九電貯炭場→三池港の石炭列車

三池港の北地区にあった九電貯炭場と三池港間の石炭列車です。九電貯炭場は、以前はスタックローダーよりベルトコンベアにて九電港発電所に送炭していましたが、1983(S58)年より炭車輸送に切り替わっています。貯炭場内ではショベルローダーによる炭車直積みが行われました。貯炭場のネガを紛失したので、代わりに九電貯炭場を背にして、三池港駅方面を望んだ写真から。




③<社内貨物>三池港→九電港発電所の石炭列車

三池港南地区にあった九電港発電所への燃料炭輸送です。1990(H2)年の時点では、港発電所は1号機(2号機は前年廃止)が稼働しています。九電線は本線運行に支障なく輸送できるよう、三池本線の海側に沿った別線があり、発電所前で折り返して構内に引込まれていました。九電は社内貨物としては最大の顧客であり、45トン電車による16両編成4往復程度の運転がされて、1997(H9)年3月の廃止時まで運行。写真は、1枚目が船渠岸壁、2枚目が発電所構内です。




③<社内運転>三池港⇔宮浦の電車回送

貨物列車ではありませんが、宮浦駅で使用する20トン電車+電源車を、三池港駅にて整備するための回送スジが設定されていました。このほか、1992(H4)年金田向け石炭列車廃止後も、45トン電車を旭町線にて使用するため、単機回送が運転されていました。両者とも1997(H9)年3月廃止時まで運転されていたと思われます。写真は万田駅の通勤ホーム付近を通過する17号電車。撮影時点では、まだ金田向け石炭列車の廃止を知りませんでした。




④<社内貨物>三池港→四ツ山の石炭列車

三池港の南地区にあった三池火力発電三池発電所への燃料炭輸送です。三池火力発電は1988(S63)年の設立ですが、もともとは三井アルミニウムの自家発電所として建設(1970年)されたものでした。四ツ山駅より推進で発電所線へ入線しました。荷卸しの様子は傍の道路から見ることが出来、45トン電車の運転士と話ができるほど近かった。一日2往復程度が1997(H9)年3月の最終時まで運行。写真は三池発電所の引込線にて。



⑤<社内貨物>大島貯炭場→四ツ山の石炭列車

四ツ山駅から分岐していた大島貯炭場からの石炭列車です。残念ながら貯炭場には行っていませんが、1991(H3)年時点に限れば、まだ列車が走れる状態に見えました。実際に列車が運行されていたかは不明ですが、おそらく、この後すぐに廃線となったと推測。写真は大島貯炭場への分岐点、遠くの立坑は四ツ山坑です。



⑥<社内運転>イベント列車

イベント列車と聞くと意外に思われるかもしれませんが、少なくとも1990年代に2回運行されています。わたしは実見していませんが、当時の新聞記事を見つけました。
いずれもJRより客車を借り受けて、三池本線を45トン電車の牽引で往復しました。地元地域の招待客を乗せての運転だったため、趣味誌にも短信が載った程度でまったく話題にならず。せめて乗車ルポでもあれば良いのですが・・・

◆1990(H2)年8月18~19日、”子供倶楽部 in OMUTA協議会”の主催による「大蛇シティー未来号」運転。14系客車2両に大蛇山のデコレーションが施され、三池浜~三池港間を計7往復。
◆1995(H7)年11月29日、”産炭地域活性化の集いinおおむた 変わらなきゃ!大牟田”の主催。旭町~三池港間1往復。。22号電車に大蛇山のデコレーションが施され、12系客車2両にて運転。

三池浜や旭町(仮屋川操車場)という、通勤列車時代にも客車が入線しなかった区間にも運転されたことも注目されます。この頃、なかば遊休化していた”三池鉄道の活用案”を取り上げた新聞記事がいくつか見つかります。具体的な動きとしては、大牟田市では観光鉄道および地域鉄道として事業化を目指して、”三池鉄道活性化協議会”を設立しています。また民間調査機関よるリポートも提出されています。ちょうど大牟田や荒尾に大規模テーマパークが次々と建設されていた頃で、これらをリンクする観光鉄道が期待されましたが、顛末はご存じのとおり。

2023年10月25日水曜日

炭鉱電車「鉄道の日」

2020(R2)年5月7日は三池鉄道の最終運行日でした。この日をもって、明治大正昭和平成令和”128年”の歴史を閉じています。終わりがあるなら始まりもということで、三池鉄道の開通日を文献から調べてみましょう。

炭鉱電車「鉄道の日」の巻。


まずは『三池港務所沿革史』(*1)より
浜(横須浜)~宮浦(島ノ上)間 1891(M24)年11月3日
宮浦   ~七浦(平原)間  1891(M24)年12月25日

宮浦は宮浦坑、七浦は七浦坑のいずれも出炭駅、浜は積出港です。路線認可としては横須浜~平原間ですが、11月3日に宮浦間を先行して運輸開始しています。

もうひとつ『三井鉱山五十年誌稿本』(*2)から、本文を引用。
(1891(M24)年11月)「3日、天長節に試運転をなしたるに稍々都合宜敷候間、4日より宮浦横須間丈の運搬を初め」とあり、11月3日は試運転日として翌4日を運輸開始日としています。天長節とは天皇誕生日のこと、明治天皇は1852(嘉永5)年11月3日降誕の由。ちなみに、同日は明治節をへて、戦後は文化の日として今も引き継がれています。

上記2誌はいずれも戦前に記されたものですが、戦後の文献ではどうでしょう。いくつか代表的なものをピックアップしてみます。

三井鉱山時代(『三池時報 1962(S37)年6月号』より(*3))
七浦~横須浜間鉄道開通 1891(M24)年12月 (日にち記載なし)

三井三池港務所時代(『三池時報 1971(S46)年7月号』より(*4))
平原から横須浜までの1哩70鎖に専用鉄道敷設 1891(M24)年11月(日にち記載なし)

三井鉱山100年史抄本『男たちの世紀』1990(H2)年5月発行
三池横須浜~七浦坑間に運炭鉄道開通(三池専用鉄道の発足) 1891(M24)年12月25日

三井石炭鉱業時代 鉄道課冊子1992(H4)4月編集
七浦より横須浜まで専用鉄道が敷設され蒸気機関車により石炭が輸送された 1891(M24)年11月(日にち記載なし)

そういえば三井化学時代は、この手の記事や冊子は見なくなりました。ちなみにウィキペディア(「三池鉄道」)は参考文献を示していないものの、「1891(M24)年12月25日三井鉱山合名部の専用鉄道として開業」としています(この記述には別に疑問あります・・・)。

結局のところ、11月3日(ないし4日) or 12月25日とするかは、最初の開通区間を横須浜~宮浦とするか、七浦とするかの違いなので、どちらが正当という話ではありません。個人的な意見としては・・・11月3日を「鉄道の日」として推します。
すでに11月3日(文化の日)は、大牟田荒尾では近代化遺産一斉公開日として三池港万田坑宮原坑等のフェスタ(*5)として定着しました。鉄道ファンとしては、大牟田市が保管していた炭鉱電車4両の、年に一日だけの公開日が2007(H19)年から始まったのが記憶にあるところ。いささかイベントに便乗ではありますが、11月3日を炭鉱電車「鉄道の日」(*6)として加えてみては如何でしょう。


(*1)三池港務所五十年沿革史編纂室1942(S17)年
(*2)三井鉱山五十年史編纂室1943(S18)年
(*3)三池港務所運輸課「15000屯出炭に対応する鉄道輸送とその施設」
(*4)港務所技術部鉄道課鉄道係長吉田次雄「三池鉄道の沿革」
(*5)大牟田荒尾の近代化遺産一斉公開としては2008(H20)年11月3日が最初、以来毎年、恒例イベントとして定着した。なお2007(H19)年は近代化遺産特別公開として催された。炭鉱電車公開もその一環。
(*6)本家「鉄道の日」は新橋~横浜間の鉄道開業を記念した10月14日。1994(H6)年に制定。

2023年10月22日日曜日

デ1号電源車④

万田坑保存車両より、デ1号電源車の解説つづき。

すこし昔(三井石炭鉱業時代)のデ1号の写真を探してみましたが、思ったほどは撮っていませんでしたので、2枚だけピックアップ。デ形は他に3号と4号が在籍しており、通常は宮浦駅に2両配置、1両使用となるため、どの番号に当たるのか巡り合わせは運任せでした。ちなみに2号は早い時期に廃車となり、蓄電池を外した姿で三池港駅に留置されていました。


当時は、真ん中の蓄電池箱に描かれた”三井(丸に井桁三)”マークがよいアクセントになっていました。この後、1997(H9)年4月に三池鉄道が三井東圧化学→三井化学時代へ遷り、2004(H16)年2月に三井化学が新しいシンボルマークを制定しても暫く変化がありませんでしたが、2006(H18)年3月の訪問時に漸く消されているのを確認しました。もしかしたら新マークが描かれるかもと思いましたが、鉄道廃止までそのまま。



追伸/
2023(R5)年11月3日の万田坑オータムフェスタにて、久しぶりに(7月8日のオープニングセレモニー以来)、12号電車+デ1号が稼働するとのことです。

「荒尾市観光協会情報サイト」

2023年10月14日土曜日

デ1号電源車③

久しぶりの更新となりましたが、万田坑保存車両よりデ1号解説の続き。

その前に・・・
保存車両に動きがありました。

西日本新聞 2023/8/23版より
『「炭鉱電車」の定期稼働へ 充電装置整備を発表 熊本・荒尾市』
残念ながら記事本文は有料となっているので取り上げませんが、荒尾市の「令和5年 第5回市議会(定例会)議案」P63*1)より、「炭鉱電車充電装置製作委託料」として約460万円の予算(案)が組まれているのが、該当記事の根拠となっていると思われます。

どのような装置が施工されるのか詳細は不明ですが、本来の充電方法は、架線(600V)より20トン電車のパンタグラフを経由して電源車の蓄電池へ給電していました。
下の写真は、宮浦駅にて9号電車+デ1号の仕業前の光景となります。パンタグラフをあげた9号から、デ1号は一晩かけて充電されていました。仕業に入る際は、パンタグラフを下げてから動き出します。通常の電気機関車とは真逆の手順となるのは今更ながら面白いですね。


今回の充電装置ですが、今から架線柱を建てて、パンタグラフから受電するというのは予算額的にも安全面にも問題がありそうなので、車輌の一部改造を行ったうえで地平施設からのケーブル充電という方法を取るのではないかと思われます。展示棟には照明用の電源(AC100V or 200V?)が引かれているので、電源車のそばにトランス→コンバーターといった機器が設置されるのではないでしょうか。

閑話休題。
今回は模型チックな視線からということで、デ1号を上からみた写真を集めてみました。車台に載った電池箱は2列×5の計10箱、3位側より反時計回りに1~10の番号が振られています。ひとつの電池箱の中には、鉛蓄電池(1セルあたり2V×24セル=48V)がびっしりと詰まっており、さらに1~10の蓄電池を直列で繋ぐことによって480Vの電圧を確保しています。







(*1)荒尾市 令和5年市議会議案