東芝社報「三井鉱山三池港務所電源車 新設計蓄電池を搭載」(*1)より5回目、今回は記事の紹介ではなく、”ある疑問”を考察します。
まずは同記事より一枚、デ2号と20トン電車(号車は不明)の写真です。この写真、どことなく違和感があるのに気付かれるでしょうか。じつは電源車と電車の位置関係が、見慣れた姿とは逆になっています。
「三井鉱山三池港務所電源車 新設計蓄電池を搭載」(*1)より引用
たまたま😸この向きで撮られた可能性があるかもと疑い、同年代の『東芝レビュー』を見返してみたところ、もうひとつ写真が見つかりました。「三井鉱山三池港務所電気機関車用電源車」(*2)と題した短い記事ですが、ここでも電源車と電車の位置は逆になっています。なおこの写真、電源車に車号や社章がなく、車台にケーブルが這っているので試験中なのかもしれません。
「昭和37年における東芝技術の成果/三井鉱山三池港務所電気機関車用電源車」(*2)より引用
言うまでもないですが、見慣れているのは、電源車の後位(機器箱側)と20トン電車の後位(浜側)がケーブルで結ばれた姿です。お互いの電気連結栓もこの組み合わせ一択しか持ちません。
以下、はっきりとした資料がないため、あくまで推論となりますが、オリジナルな仕様としては、電源車は20トン電車の前後どちら側でも使用が可能だったのではないかと考えています。すなわち、”電源車・電車の両車とも前後に電気連結栓を備えていた”ということになります。以下、裏付けとなる物証を探してみます。
まずは電源車側から。写真はデ4号の前位をみたものですが、端梁の2位寄りに丸穴跡が3つ並んでいます。これは電気連結栓の取り付け跡ではないかと睨んでいます。
下の写真は電源車(後位側)の連結栓(旧タイプ)の取り付け方法です。立型の筒はケーブル収納の際の栓受け。前位側では連結器の解放テコが干渉しそうですが、元々、連結器は下作用式(上作用式には後年改造)でした。
電源車対応であった20トン電車(9号、11~12号)を観察すると、万田坑に保存された12号電車のみ、1位寄り(港側)のボンネットに連結栓の痕跡が残っています。前後は対角ではなく、対称の位置関係となるのは電源車も同様です。
なお、連結栓を避けていた標識灯が上にずれたままになっているのは12号の特徴。
参考までに、下の写真は12号電車3位寄りの通常の連結栓(旧タイプ)です。現在はコンパクトになりましたが、もともとはボンネットに直接取り付けられていました。
現在はステーションゼロに保存されている11号電車には、12号のような痕跡は確認できません。ところが『私鉄電気機関車ガイドブック』(*3)には前位側に電気連結栓がならんだ11号電車が掲載されています。資料としてはこれが決定的な物証となるでしょう。撮影日は1974(S49)年2月です。
なお、牽引される電源車の車号は不鮮明ですが、後位(機器箱側)床下に排障器が見えています。後位側が先頭になる場合があることの物証となります。
『私鉄電気機関車ガイドブック西日本編』より引用(*3)
以上、電源車・20トン電車の両頭仕様はほぼ間違いないと思うのですが、最初に述べたように明確に言及した資料が見つかりませんでした(*4)。また、すべての車両に共通していたのか、あるいは一部に限定されていたのかはよく分かりません。
はたして電源車を繋ぐ位置については、前後どちらかに特段のメリットがあるのか、素人目にみても??です。電源車の登場当初は、連結位置を変えなければならない使用状況を想定していたかもしれませんが、部品数が増えてしまうことは保守的にはデメリットになるのではないかと思います。
おそらくは、ある時期に連結方向が固定され、不要となった電気連結栓が撤去されたと思われるのですが、電源車電車双方ともそれらしい記事が見つからないのが不思議といえば不思議。
(*1)鵜沢正治・山司房太郎「三井鉱山三池港務所電源車 新設計蓄電池を搭載」『東芝レビュー』1963(S38)年10月 東京芝浦電気発行(*2)『東芝レビュー』1963(S38)年3月 東京芝浦電気発行
(*3)杉田肇著 誠文堂新光社1977
(*4)間接的な言及となるが、11号電車の1967(S42)年2月の修繕記事に1位側(→前位)に電源車を連結した場合に電流計が指示しないので充電用メーンケーブル配線替えをおこなったとの記述がみられる。