2024年4月30日火曜日

万田坑の新設充電装置について

更新間隔あいて、どーもすいません。
この間、いろいろと重要な動きがありましたので、一先ずまとめます。

まずは万田坑の保存機から。
2024年2月13日万田坑12号+デ1、充電装置取付工事開始(2月16日より試運転)
2024年3月10日万田坑12号+デ1、万田坑スプリングフェスタにて公開運転(3回)
2024年4月14日万田坑12号+デ1、定期運転公開初日(1日6回)
以降、定期運転については第2第4日曜日の運転が発表されています。

充電装置の取付けについては、すでに荒尾市よりアナウンス(2023年8月)されていたので予定通りの施行です。

もうひとつは非公表(というか秘匿)されていた情報で、大牟田市の白石ホールディングス株式会社(大牟田市新開町)での炭鉱電車保存事業です。保存対象となったのは11号と19号電車。
2023年1月14日から15日にかけて宮浦駅より大牟田市北磯町へ陸送(非公表)。
以降、車輛はブルーシートを掛けて仮保管。ブルーシート時代はわたしも一応見ています( ´艸`)

おおよそ1年をかけて、車庫やギャラリー、ショップの各棟建設、およびレイル敷設(宮浦駅で使用されたレイルとポイント、枕木を再利用)が施行され、2024年3月19日に竣工式。施設名は「炭鉱電車ステーションゼロ」。ゼロ(0)は、かつてこの北磯町にあった三池浜駅(0km鉄道起点)に由来します。

2024年4月12日炭鉱電車ステーションゼロ、完成記念式典。ディーゼル機関車(TMC200C形)による19号牽引を披露。新聞各紙報道あり、以降、情報公開が解禁。
2024年4月20日炭鉱電車ステーションゼロ、一般公開初日(3回運転)。
5月6月は第3土日の公開が発表されています(4月現在)。

ステーションゼロ、および万田坑の炭鉱電車事業については、鉄道車両保存事業を手掛ける㈱ワンマイルがハードソフト両面で請け負っており、実際の運転も担当しているとのことです。現時点では両所とも一般公開を始めたばかりで手探り感もありますが、今後イベントなどが活発化していくことが期待できますね。



閑話休題。12号電車デ1の充電装置について解説。
定期運転終了後の充電装置を見たままリポします(わたしは電気の素人なのでツッコミどころ満載)。

<外部機器>
これは巧いな~と思ったのは、元々あった12号解説板の裏側を利用しています。まるで最初からの計画ではと思えるほどしっくりとして目立ちません。すぐ近くの柱に設置された分電盤(照明用)からのAC100Vがまずこの外部機器(タイマー)に。さらに外部機器からの制御線を合わせた1本のケーブルが12号電車の床下に導かれています。



12号電車の床下を見ています。ちょうど連結器の裏側に当たります。写真はケーブルが巻き取られた状態で、外部機器に繋げるソケットは車輌側に収納されています。


<車輛機器>
12号電車の2位側ボンネット(電源車側)に車輛機器が収まっていました。こちらのボンネットは大半を主抵抗器が占めていますが、正面側とのスペースにコンパクトに収まっています(写真は機器カバーを外しています)。


参考までに機器設置前のボンネット内部はこんな感じでした(写真は9号電車)。うまい具合に都合よいスペースが空いていましたね。


新設機器ですが、メーカーと型式があるのですぐヒットしました。横浜にあるテクシオ・テクノロジー社製のスイッチング直流安定化電源(PSU600-2.6)でした。型式の数字が出力を表していて、入力AC100→出力DC600V-2.6A、これを並列配置して出力DC600V-5.2Aとしています(一応、4基まで増設可能に見えます)。下世話ですが、一基30万近いお値段でした。
出力600Vは架線電圧と同じですが、僅か5Aとなると(九電の契約アンペアの制限?)、デ1号の空充電から満充電までは一月以上かかる計算となると思います。ただ、実際には公開運転程度ではバッテリーの消費がそれほどではないため、ゆっくりな充電で時間的には問題ないとのことです(むしろバッテリーには優しい)。

<運転室>
充電(正しくは準備状態)での運転室内を見ています。外部機器とケーブルが繋がっているので、12号デ1号ともブレーキをかけています。


架線-電池の切替レバースイッチは、真ん中の”切り”の位置です。上の写真で主電圧計は0を指しています。レバーについては、バッテリー運転中は下(=電池)、運転停止中は上(=架線)にしていました。”架線”は切りと同意なので、万一のいたずら侵入で機関車を動かさないための処置でしょうか。あと、青ケーブルが追加されているのは気になります。このケーブルはボンネット内の基板配線に繋がっている?


ちなみにパンタグラフは畳まれたままです。本来、電源車の充電はパンタグラフを経由して行われていました。今回の機器設置の工事中の写真を見ると、わざわざパンタグラフを上げたシーンがあったので、配線的に充電時のみ上がるかもと期待しましたが、これは当てが外れました。逆に言うと、構造上は不必要(=お飾り)となったので、パンタグラフをあげたまま、バッテリーで走ることも出来るのか?←あくまで余談です。

以上、見たまま。おそらく配線等にも手が加えられていると思いますが、この辺りは素人には理解できません。ちなみにデ1号は変化を確認できませんでした。工事開始前は、12号電車に大きく手が加えられるのかと危惧しましたが、まったくの杞憂に終わりました。
施工業者のセンスが光っています。

2024年2月15日木曜日

三池の絵葉書から①

しばらく更新が滞りましたが、この間、2024(R6)年1月に万田坑にて『千本桜展2.0~桜京の夢』(*1)の開催がありました。荒尾市は万田坑でのイベント開催に積極的ですね。この他、わたしには疎いジャンルですが、コスプレイヤーやアイドル撮影会などもしばしば催されおり、万田坑の知名度のアップにつながっています。このおかげか、炭鉱電車12号と18号の姿もSNSで多く見かけるようになりました。つまりは別嬪さんの背景として😻


マイコレクションから万田坑の古絵葉書をひとつ。三池炭鉱の数ある坑口の中でも、万田坑については群を抜いて発行数が多いのは間違いないでしょう。威容をほこる第一立坑を中央に配し、万田坑全体を見渡す構図は定番のひとつです。


以下、絵葉書に解説を少々。
この構図は、万田坑を西側(荒尾市原万田)から見ています。すこし高い位置からの撮影で、現在も小高い丘となっていて場所は特定できますが、笹藪となっていて見通すことは難しいのが残念。
手前の線路は三池本線、右手が三池港、左手が宮原方面です。第一立坑巻上機室そばに見える建屋が初代万田駅。よく見ると、そばには給炭台と水タンク。その奥の選炭場は、今は12号と18号電車が保存されている位置になります。
なお、この絵葉書は、万田駅構内は未電化なものの、8トン炭車の姿があるので、1905(M38)~1911(M44)年頃の撮影ではないかと推測されます。


三池炭鉱の絵葉書は非常に多く発行されており、コレクションの愉しみとなります。これら絵葉書は、おそらく物見遊山のお土産として大牟田駅などで売られていたもののほか、三池港に上陸した外国船員の日本土産となったことでしょう。三池の産業遺産観光も定着した感がありますが、三池炭鉱が”遺産(heritage)”となる以前から、もともと産業観光という一面があったのではないかと思っています。


(*1)荒尾市HPより『千本桜展2.0~桜京の夢』チラシ(PDF)

2024年1月6日土曜日

わたしが見た炭鉱電車抄録③ 1997~2020編

この記事は『HP炭鉄』からのサルベージ&リペアになります。
なお抄録として書いたので写真は拡大しません。

わたしが見た炭鉱電車③は、1997~2020年編となります。正式名称は、1997(H9)年4月より”三井東圧化学専用鉄道”、同年10月に社名変更があり”三井化学専用鉄道”となりました。路線は旧旭町線1.8キロ(宮浦~旭町)のみが引き継がれ、三井化学大牟田工場関連の貨物のみを扱うこととなりました。三池鉄道128年の歴史のうち、最後の23年間にあたります。

わたしは1997(H9)年10月を最後に1998~2001年は訪問をしていませんので、この間の動向については分からない部分があります。2002(H14)年に訪問を再開したのは、『HP炭鉄』を始めるにあたっての情報収集のためでしたが、以降、毎年1~3回の訪問を重ねました。2007(H19)年からは大牟田市が所有する電車4両が一般公開されるようになったため、公開日のある11月が定例の訪問月となりました。

 三池本線最後の運転は、大牟田市が譲受した電車4両(三井化学内に仮保管)と、三井化学が引き継いだ電車5両、貨車7両(ハト形、ヒト形、検形)および保線車両(トラック型モーターカ)、部品取りとした電車3両の回送をもって、1997(H9)年中に終了した模様です。わたしが同年10月に三池港駅を訪れた時点で残っていた車輌はなく、レイル撤去が本線を遡るように始まっていました。

 <JR継走>旭町→宮浦の化成品タンク列車

三井石炭鉱業専用鉄道より引き継がれた宮浦駅に隣接する三井化学大牟田工場の化成品輸送です。定期的な濃硝酸と液化塩素の到着貨物でした。タンク車の陣容は変わらず、濃硝酸はタキ7500形、タキ10450形、タキ29000形、タキ29100形、液化塩素はタキ5450形が用いられていました。かつては様々な発駅があったものの、正確にはいつ頃からの事なのか分からなかったのですが、濃硝酸は三菱化成から(黒崎駅発)、液化塩素は旭化成工業から(南延岡駅発)の2社に絞られました。


旧旭町線をゆく19号のタンク車編成。鹿児島本線との並走区間です。


浅牟田町108号踏切をゆく濃硝酸タンク車。
この踏切は大牟田川の流路変更により廃止されました。



<JR継走>旭町→宮浦の化成品コンテナ列車

従前のタンク車がタンクコンテナに置き換えられたものです。タンク車の老朽化、およびJRのコンテナ化推進により、まず2009(H21)年6月(頃か?)に濃硝酸タンク車がコンテナ(三菱化学物流所有 UT13C形=通称”銀タンコ”)に置き換えられ、同年12月には液化塩素タンク車もコンテナ(日本陸運産業所有 UT13C形=通称”黄タンコ”)に置き換えられました。これ以降、使用車両はJR貨物のコキ200形(2個積み)となりました。2020(R2)年5月の鉄道廃止までコンテナ輸送が行われ、最終列車は銀タンコ5両の返却列車となりました。なお、鉄道廃止の直接の理由は、三菱化学(←三菱化成)の硝酸製造の廃止によります。


宮浦駅に到着した濃硝酸銀タンコ編成。


大牟田工場への入出場はコキ200形1両単位となり入換頻度が増えました。


仮屋川操車場にて液化塩素の黄タンコ。


浅牟田町108号踏切をゆく黄タンコ。


<JR継走>宮浦→旭町の海上コンテナ車列車

大牟田工場で製造されてドラム缶詰めされた化成品の、海上ドライコンテナによる発送貨物です。なおドラム缶の中身は、TDIと思われるポリウレタン半製品と推測されます。北九州貨物ターミナルから日明コンテナ埠頭に陸送、船舶によって主に中国へ輸出されていたようです(北九州貨物ターミナルからの物流については未確認)。このコンテナ輸送は、1999(H11)年12月の試験輸送からスタートし、宮浦駅の南側には専用のコンテナホームが新設されて、大型フォークリフトが配置されています。当初はコキ106形に海上コンテナ1個積みとしていましたが、2003(H15)年頃にはコキ200形に2個積みとしています(以降も稀にコキ106を使用)。
 2002(H14)~07(H19)年は国土交通省が推進したモーダルシフト実験の対象となるなど注目をあつめた輸送となり、わたしの見たかぎりでは、最大でコキ200×5両(コンテナ10個)が組まれるなど、活発な輸送が行われた時期がありました。ただし、わたしの印象では2008(H20)年頃より次第に減少に転じたとみられ、2~3両程度の短編成、かつ低頻度運転となっていました。輸送が低調となった事情は不明なのですが、その後、一足早く2017(H29)年初頭に廃止されたと思われます。


宮浦石炭記念公園より。
入換都合でタキ5450形が挟まっています。


旧勝立線跡ホームより。
コンテナ車を牽き出します。



<社内>宮浦⇔旭町の錆取り列車

三井化学大牟田工場が5月半ば~6月半ばにかけて定期メンテナンスに入り、列車が運休される期間に、週一程度のペースで運転された列車(コキ200牽引や、単機)です。社内での正式名称は不明ですが、趣味人の間では”錆取り運転”と呼ばれ、おそらく信号や踏切の保守作業であったと思われます。残念ながら、わたしは目撃出来ませんでした。



<社内>電車交代

宮浦車庫との間で走った45トン電車および20トン電車の交代運転です。通常、宮浦構内には45トン電車1両(宮浦~旭町用)および20トン電車1両(工場入換用)が配置されましたが、2週間程度の間隔でそれぞれローテーションが行われました。なかなかタイミングが読めない運転でしたが、わたしも一度だけ目撃出来ました。


三坑町踏切にて、電車交代のため車庫に引き上げます。



<社内>コンテナ積替え

列車というわけではありませんが、2011(H23)年3月”コキ200問題”と呼ばれた空コンテナ搭載禁止(成田線での脱線事故で判明。原因はコキ200の台車問題)に対処するため、コキ104・106形への空コンテナ積替え作業です。大牟田工場にて荷卸しを終え、”空コンテナ”を積んで戻ってきたコキ200形から、コンテナホームにて一旦コンテナを降ろし、コキ104・コキ106形へ再び積み直すという作業でした。この積替えのため、JR貨物よりトップリフターが配置されています。積替え作業は、2011(H23)年11月より始まり、2013(H25)年2月に台車改良されたコキ200形の復帰により解消しました。


コンテナホームにて銀タンコ積み替え。
空車コキは、空コンテナの搭載用。


黄タンコも同じく積み替えられます。