2023年10月29日日曜日

わたしが見た炭鉱電車抄録① 1990~1997編

当ブログの仕様にも漸く慣れてきたので、今後は『HP炭鉄』からサルベージ&リペアした記事もアップしていきます。


”わたしが見た炭鉱電車”というと、エラソーで恐縮ですが、かれこれ三池鉄道との付き合いも30年を越えましたので、わたしなりにヒストリーを振り返ってみたいと思います。正直言えば、古いものから記憶が曖昧になりかけていますので、備忘録を書いておかないと永久に忘れそうという深刻な理由もあります。

わたしが本格的に撮り出したのは1990(H2)年からですが、まずは1997(H9)年までをまとめてみました。より正確にいえば「三井石炭鉱業専用鉄道」の時代であり、1997(H9)年3月の三池炭鉱閉山までの7年間の記録となります。この頃は年1~2回訪問してたな。

本題の前に、わたしが訪問する以前の直近10年に無くなっていた事例を参考に揚げました。資料は訪問時に頂いたプリント『三池炭鉱専用鉄道の沿革』から。

 1984(S59)年6月三井東圧横須工場全線閉鎖
 1984(S59)年10月通勤列車運行終了(最終時は万田線・玉名線)
 1986(S61)年4月三井コークスAB炉廃止(コークス炉全面廃止)
 1987(S62)年11月電気化学全線廃止

鉄道ファンには俄然、通勤列車に注目が集まり、とくに1980年代は多くの記録が発表されて目の愉しみとなります。個人的に悔やまれるのは、コークス炉全廃後の訪問だったということでしょうか。おそらく三池港→宮浦の原料炭、宮浦→三池港のコークスといった三池本線を生かした社内輸送が行われたはずですが、当然ながら間に合いませんでした。本線を行き交う石炭列車を生で見てみたかった・・・

下図は、凡そ1990(H2)年時点として作成した三池鉄道の路線図になります。すでに貨物列車の運行は、三池港駅と宮浦駅のそれぞれの局地輸送がメインとなっており、三池本線も名ばかりの状態となっていました。とはいえ最後の輝きを見ることができたのは、つくづく幸運だったと今更ながら思います。
なお、この記事は抄録として書いたので写真は拡大しません。悪しからず。


①<社内貨物>三池浜→三池港の石炭列車

三池浜駅の奥にあった浜貯炭場にて石炭を積込み、三池港駅へと運転された石炭列車です。三池本線を全通する最後の設定列車だったと思われます。浜貯炭場ではショベルローダーによる炭車直積みが行われていました。この石炭はどこから?詳細は不明ですが、貯炭場には荷卸しの設備がないので、おそらく三池港からダンプカーで持ち込まれていたと推測しています。社内では「シフト輸送」と称していたようですが、1990年中に廃止されましたので、偶然にも目撃できたのはラッキーでした。写真は浜貯炭場にならぶセナ炭車、靴が黒い泥だらけになりました。



②<社内貨物>九電貯炭場→三池港の石炭列車

三池港の北地区にあった九電貯炭場と三池港間の石炭列車です。九電貯炭場は、以前はスタックローダーよりベルトコンベアにて九電港発電所に送炭していましたが、1983(S58)年より炭車輸送に切り替わっています。貯炭場内ではショベルローダーによる炭車直積みが行われました。貯炭場のネガを紛失したので、代わりに九電貯炭場を背にして、三池港駅方面を望んだ写真から。




③<社内貨物>三池港→九電港発電所の石炭列車

三池港南地区にあった九電港発電所への燃料炭輸送です。1990(H2)年の時点では、港発電所は1号機(2号機は前年廃止)が稼働しています。九電線は本線運行に支障なく輸送できるよう、三池本線の海側に沿った別線があり、発電所前で折り返して構内に引込まれていました。九電は社内貨物としては最大の顧客であり、45トン電車による16両編成4往復程度の運転がされて、1997(H9)年3月の廃止時まで運行。写真は、1枚目が船渠岸壁、2枚目が発電所構内です。




③<社内運転>三池港⇔宮浦の電車回送

貨物列車ではありませんが、宮浦駅で使用する20トン電車+電源車を、三池港駅にて整備するための回送スジが設定されていました。このほか、1992(H4)年金田向け石炭列車廃止後も、45トン電車を旭町線にて使用するため、単機回送が運転されていました。両者とも1997(H9)年3月廃止時まで運転されていたと思われます。写真は万田駅の通勤ホーム付近を通過する17号電車。撮影時点では、まだ金田向け石炭列車の廃止を知りませんでした。




④<社内貨物>三池港→四ツ山の石炭列車

三池港の南地区にあった三池火力発電三池発電所への燃料炭輸送です。三池火力発電は1988(S63)年の設立ですが、もともとは三井アルミニウムの自家発電所として建設(1970年)されたものでした。四ツ山駅より推進で発電所線へ入線しました。荷卸しの様子は傍の道路から見ることが出来、45トン電車の運転士と話ができるほど近かった。一日2往復程度が1997(H9)年3月の最終時まで運行。写真は三池発電所の引込線にて。



⑤<社内貨物>大島貯炭場→四ツ山の石炭列車

四ツ山駅から分岐していた大島貯炭場からの石炭列車です。残念ながら貯炭場には行っていませんが、1991(H3)年時点に限れば、まだ列車が走れる状態に見えました。実際に列車が運行されていたかは不明ですが、おそらく、この後すぐに廃線となったと推測。写真は大島貯炭場への分岐点、遠くの立坑は四ツ山坑です。



⑥<社内運転>イベント列車

イベント列車と聞くと意外に思われるかもしれませんが、少なくとも1990年代に2回運行されています。わたしは実見していませんが、当時の新聞記事を見つけました。
いずれもJRより客車を借り受けて、三池本線を45トン電車の牽引で往復しました。地元地域の招待客を乗せての運転だったため、趣味誌にも短信が載った程度でまったく話題にならず。せめて乗車ルポでもあれば良いのですが・・・

◆1990(H2)年8月18~19日、”子供倶楽部 in OMUTA協議会”の主催による「大蛇シティー未来号」運転。14系客車2両に大蛇山のデコレーションが施され、三池浜~三池港間を計7往復。
◆1995(H7)年11月29日、”産炭地域活性化の集いinおおむた 変わらなきゃ!大牟田”の主催。旭町~三池港間1往復。。22号電車に大蛇山のデコレーションが施され、12系客車2両にて運転。

三池浜や旭町(仮屋川操車場)という、通勤列車時代にも客車が入線しなかった区間にも運転されたことも注目されます。この頃、なかば遊休化していた”三池鉄道の活用案”を取り上げた新聞記事がいくつか見つかります。具体的な動きとしては、大牟田市では観光鉄道および地域鉄道として事業化を目指して、”三池鉄道活性化協議会”を設立しています。また民間調査機関よるリポートも提出されています。ちょうど大牟田や荒尾に大規模テーマパークが次々と建設されていた頃で、これらをリンクする観光鉄道が期待されましたが、顛末はご存じのとおり。

2023年10月25日水曜日

炭鉱電車「鉄道の日」

2020(R2)年5月7日は三池鉄道の最終運行日でした。この日をもって、明治大正昭和平成令和”128年”の歴史を閉じています。終わりがあるなら始まりもということで、三池鉄道の開通日を文献から調べてみましょう。

炭鉱電車「鉄道の日」の巻。


まずは『三池港務所沿革史』(*1)より
浜(横須浜)~宮浦(島ノ上)間 1891(M24)年11月3日
宮浦   ~七浦(平原)間  1891(M24)年12月25日

宮浦は宮浦坑、七浦は七浦坑のいずれも出炭駅、浜は積出港です。路線認可としては横須浜~平原間ですが、11月3日に宮浦間を先行して運輸開始しています。

もうひとつ『三井鉱山五十年誌稿本』(*2)から、本文を引用。
(1891(M24)年11月)「3日、天長節に試運転をなしたるに稍々都合宜敷候間、4日より宮浦横須間丈の運搬を初め」とあり、11月3日は試運転日として翌4日を運輸開始日としています。天長節とは天皇誕生日のこと、明治天皇は1852(嘉永5)年11月3日降誕の由。ちなみに、同日は明治節をへて、戦後は文化の日として今も引き継がれています。

上記2誌はいずれも戦前に記されたものですが、戦後の文献ではどうでしょう。いくつか代表的なものをピックアップしてみます。

三井鉱山時代(『三池時報 1962(S37)年6月号』より(*3))
七浦~横須浜間鉄道開通 1891(M24)年12月 (日にち記載なし)

三井三池港務所時代(『三池時報 1971(S46)年7月号』より(*4))
平原から横須浜までの1哩70鎖に専用鉄道敷設 1891(M24)年11月(日にち記載なし)

三井鉱山100年史抄本『男たちの世紀』1990(H2)年5月発行
三池横須浜~七浦坑間に運炭鉄道開通(三池専用鉄道の発足) 1891(M24)年12月25日

三井石炭鉱業時代 鉄道課冊子1992(H4)4月編集
七浦より横須浜まで専用鉄道が敷設され蒸気機関車により石炭が輸送された 1891(M24)年11月(日にち記載なし)

そういえば三井化学時代は、この手の記事や冊子は見なくなりました。ちなみにウィキペディア(「三池鉄道」)は参考文献を示していないものの、「1891(M24)年12月25日三井鉱山合名部の専用鉄道として開業」としています(この記述には別に疑問あります・・・)。

結局のところ、11月3日(ないし4日) or 12月25日とするかは、最初の開通区間を横須浜~宮浦とするか、七浦とするかの違いなので、どちらが正当という話ではありません。個人的な意見としては・・・11月3日を「鉄道の日」として推します。
すでに11月3日(文化の日)は、大牟田荒尾では近代化遺産一斉公開日として三池港万田坑宮原坑等のフェスタ(*5)として定着しました。鉄道ファンとしては、大牟田市が保管していた炭鉱電車4両の、年に一日だけの公開日が2007(H19)年から始まったのが記憶にあるところ。いささかイベントに便乗ではありますが、11月3日を炭鉱電車「鉄道の日」(*6)として加えてみては如何でしょう。


(*1)三池港務所五十年沿革史編纂室1942(S17)年
(*2)三井鉱山五十年史編纂室1943(S18)年
(*3)三池港務所運輸課「15000屯出炭に対応する鉄道輸送とその施設」
(*4)港務所技術部鉄道課鉄道係長吉田次雄「三池鉄道の沿革」
(*5)大牟田荒尾の近代化遺産一斉公開としては2008(H20)年11月3日が最初、以来毎年、恒例イベントとして定着した。なお2007(H19)年は近代化遺産特別公開として催された。炭鉱電車公開もその一環。
(*6)本家「鉄道の日」は新橋~横浜間の鉄道開業を記念した10月14日。1994(H6)年に制定。

2023年10月22日日曜日

デ1号電源車④

万田坑保存車両より、デ1号電源車の解説つづき。

すこし昔(三井石炭鉱業時代)のデ1号の写真を探してみましたが、思ったほどは撮っていませんでしたので、2枚だけピックアップ。デ形は他に3号と4号が在籍しており、通常は宮浦駅に2両配置、1両使用となるため、どの番号に当たるのか巡り合わせは運任せでした。ちなみに2号は早い時期に廃車となり、蓄電池を外した姿で三池港駅に留置されていました。


当時は、真ん中の蓄電池箱に描かれた”三井(丸に井桁三)”マークがよいアクセントになっていました。この後、1997(H9)年4月に三池鉄道が三井東圧化学→三井化学時代へ遷り、2004(H16)年2月に三井化学が新しいシンボルマークを制定しても暫く変化がありませんでしたが、2006(H18)年3月の訪問時に漸く消されているのを確認しました。もしかしたら新マークが描かれるかもと思いましたが、鉄道廃止までそのまま。



追伸/
2023(R5)年11月3日の万田坑オータムフェスタにて、久しぶりに(7月8日のオープニングセレモニー以来)、12号電車+デ1号が稼働するとのことです。

「荒尾市観光協会情報サイト」

2023年10月14日土曜日

デ1号電源車③

久しぶりの更新となりましたが、万田坑保存車両よりデ1号解説の続き。

その前に・・・
保存車両に動きがありました。

西日本新聞 2023/8/23版より
『「炭鉱電車」の定期稼働へ 充電装置整備を発表 熊本・荒尾市』
残念ながら記事本文は有料となっているので取り上げませんが、荒尾市の「令和5年 第5回市議会(定例会)議案」P63*1)より、「炭鉱電車充電装置製作委託料」として約460万円の予算(案)が組まれているのが、該当記事の根拠となっていると思われます。

どのような装置が施工されるのか詳細は不明ですが、本来の充電方法は、架線(600V)より20トン電車のパンタグラフを経由して電源車の蓄電池へ給電していました。
下の写真は、宮浦駅にて9号電車+デ1号の仕業前の光景となります。パンタグラフをあげた9号から、デ1号は一晩かけて充電されていました。仕業に入る際は、パンタグラフを下げてから動き出します。通常の電気機関車とは真逆の手順となるのは今更ながら面白いですね。


今回の充電装置ですが、今から架線柱を建てて、パンタグラフから受電するというのは予算額的にも安全面にも問題がありそうなので、車輌の一部改造を行ったうえで地平施設からのケーブル充電という方法を取るのではないかと思われます。展示棟には照明用の電源(AC100V or 200V?)が引かれているので、電源車のそばにトランス→コンバーターといった機器が設置されるのではないでしょうか。

閑話休題。
今回は模型チックな視線からということで、デ1号を上からみた写真を集めてみました。車台に載った電池箱は2列×5の計10箱、3位側より反時計回りに1~10の番号が振られています。ひとつの電池箱の中には、鉛蓄電池(1セルあたり2V×24セル=48V)がびっしりと詰まっており、さらに1~10の蓄電池を直列で繋ぐことによって480Vの電圧を確保しています。







(*1)荒尾市 令和5年市議会議案