この記事は『HP炭鉄』からのサルベージ&リペアになります。
三池鉄道では石炭車を"炭車"と称しました。まず炭車略史①として、1891(M24)年の三池鉄道開通~1940年代迄をまとめます。この50年間を一言でいえば、三池形炭車の時代となると思います。4トン-8トン-16トンという倍数的に大型化したオリジナルな炭車を新製し、世代交代を果たしました。
4トン積炭車の登場(1891(M24)~)
1891(M24)年12月の鉄道運転開始から炭車を用いた石炭輸送が始まります。横須船積場~七浦坑間を開通した際、最初に採用した炭車は4トン炭車でした。「最初の炭車は木製4トン、底に2ヶの開閉戸があって、船積みの際にこれを開いて石炭を落下させる装置である」(*文献1)とあります。
三池炭車の特徴として底開きホッパーカーということが挙げられます。”底開き”とは炭箱の底扉によってレイルの間に石炭を卸す仕組みです。底開きは筑豊炭田を控えた筑豊興業鉄道も採用し、九州地方の石炭車の標準仕様として普及しましたが、三池鉄道との技術的な繋がりについて言及した文献は見つかりませんでした。多くの鉄道史文献では、1893(M26)年筑豊興業鉄道が採用した6トン積み鉄製石炭車(英国ラムソン&レピーヤ製)を嚆矢としており、一方、鉱山史からは三池炭車を嚆矢とする記述が見られること(*1)は注目すべきだと思います。
以降、単位4トンは三池貨車の基準になりました。4トン炭車1両が馬車軌道の鉱車(0.44トン)の9車分(およそ2列車分)になり、輸送力を桁違いにアップさせました。また”船積”とあるように、底開きという炭車構造と、横須船積場の「高架桟橋」との組み合わせによって、船積みの時間短縮と省力化が達成されました。たとえば70トンを船積する場合、「170の小炭車と30馬匹を要し、1時間以上を費せしも、汽車用炭車は僅か18台、時間12分を以て積み移し得る」(*文献1)と簡潔に比較されています。三池鉄道では、高架桟橋から自然落下によって炭車から直に船積する方法は横須船積場に見られ、三池港では船積機を介した機械荷役へと移りましたが、高架桟橋は三池港貯炭場の施設としてより大規模に用いられました。
4トン炭車は1890(M23)年中から製造が開始され、鉄道開通時には100両が用意されといいます。その後、1901(M34)年までに総数324両(総荷重1296トン)まで増備されました。時代的には万田坑開鉱や、三池港築港工事の開始などが区切りとなりました。4トン炭車は、およそ明治年間の主力炭車でしたが、大正半ば過ぎから両数を減らし、使用廃止は1933(S8)年となりました。
8トン積炭車の登場(1905(M38)~)
8トン炭車は、1905(M38)年5月まず25両が登場し(*文献2)、1930(S5)年までの長期間にわたり合計485両(総荷重3880トン)が新製増備されました。特徴として、4トン車の2車分に大型化されたこと、鉄製車ということが挙げられます。また製造にあたって鉄道車輌メーカーが参加しています。鉄製で耐久性があったことから長期にわたって用いられました。大正時代はおおむね、4トン・8トン車の時代といえ、4トン車と混用された編成も見られます。また戦後には炭箱嵩上げによって多くが10トン積車セ形に改造されました。セヤ形としては1960年代まで現役だったと思われます(*文献3)。
8トン車は三池港に対応した大型炭車と位置づけることが出来ます。三池鉄道開通当初、1892(M25)年の出炭量は46万トンでしたが、勝立坑、宮原坑、万田坑の開坑によって、1907(M40)年には148万トンと3倍増となりました。この間、4トン炭車の約250両の増備や、本線の中央区間(宮浦坑~七浦坑)の複線化が図られていますが、官営時代以来の最大懸案(大牟田港から口之津港への中継航送)は、三池港築港による決着を待たなくてはなりませんでした。三池港の開港とともに、宮浦~三池港という本線の大部分が複線化され、あわせて重軌条化が図られました。
8トンが新単位になったことは、三池港の船渠岸壁に3台備えられた石炭船積機(ダンクロ・ローダー)のバケッツ容量が8トンということからもうかがえます。船渠岸壁に平行して設けられた四ツ山貯炭場から、15トン電車牽引の8トン車8両という編成で船積機に連続送炭されました。
16トン積炭車の登場(1934(S9)~)
16トン炭車は、8トン炭車をさらに2車分大型化し、三池形炭車の完成型となった形式です。1934(S9)~1938(S13)年の短期間の新製増備ながら、合計240両新造。総荷重3840トンは4トン車と同じ輸送力を確保しています。世代的には7トン車の代替えとなりますが、地上設備の改良(および旧坑の閉坑)により大型炭車の導入が可能になりました。
8トン車の2車分ということは、炭箱の構造にも現れていて、中央仕切りによって8トンづつの2室に分かれています(それぞれに底扉は2つ)。これは先述した、船積機の規格に沿ったものと思われます。形態的にも類似車輌がいない、車高を抑えた(その分、車長が長い)、独特なスタイルをしています。16トン炭車は平成時代まで生き残りました。
7トン炭車の購入(1913(T2)~)
7トン炭車は、「明治41(1908)年6月から初めて宮浦立坑で土砂充填が開始されるに至って、浜駅構内の殻捨から焚殻を炭車に積んで宮浦に輸送されるようになり、後の充填列車の魁となった。…その後、充填列車整備のこととなり、国有鉄道の中古車118両を大正2、3年にかけて購入、4年8月大浦採鉱所の土砂積に使用」(文献1)とあり、このことを鉄道統計から補うと、大正2(1913)年版に底開き石炭車45両、大正3(1914)年版にも同型73両が三井鉱山譲渡と記され、記事と一致しています。
当時、鉄道院では石炭車の増トン改造(9トン、13トン化)の最中で、その一方で改造不適格となった石炭車(全鉄製車以外)を民間に放出しており、これらを三池にて譲受したものです。7トン車は鉄製台枠に木製炭箱を載せた木鉄混製車で、1934(S9)年まで使用されました。8トン車などと混成の編成を組んだ写真もあるので、石炭車として使用されることも多かったと思われます。
(*1)例えば『鉱山発達史』(1900(M33)年)など。
(*2)製造に関しては不詳点が多いが、三池鉱業所総年譜によれば1890(M23)年1月製造着手。
(*文献1)『三井鉱山五十年史稿本』より。
(*文献2) 『三池炭鉱専用鉄道概要』より。
(*文献3)『鉄道ファン21号』1963-3より。1962(S37)年撮影としてセヤ2047号が目撃されている。
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