2024年9月11日水曜日

三池鉄道メモ①

単発的なネタをメモ、以降の課題資料とします。

三池鉄道の謎車輌について。
三池の客車といえば通勤輸送に用いられたコハ形・ホハ形はよく知られていますが、じつは明治期より1両の客車が在籍していました。『三池港務所沿革史』より「明治35年(*1902)に客車1両を製造せられ、社内見学視察者等の乗用に使用」とあります。竣工図表は添付されていないため、どのような客車であったのかは皆目不明で、どこで製造されたのかも分かりません。無論、写真も未発見です。1902(M35)年~1936(S11)年は1両が在籍、形式称号の改正があった1937(S12)年以降は”その他”の車輛に括られたようで、在籍については追跡できません。1902年製ということから”東洋一”の万田坑開坑(1902年11月操業開始-1903年3月開坑式)の見学者に対応したものと思われます。やんごとなき方々の乗車機会があるでしょうから、客室内もそれなりであったのだろうと想像するしかありません。

ところで、この客車(形式も車号も不明のままですが)、実際に使われた事例を探していたら、それらしい記事を見つけたので合わせて引用しておきます。
1926(T15)年10月21日~10月29日に石炭礦業連合会主催にて、会員による九州視察旅行が行われました。行程については清宮生「視察団に伍して」(*1)という記事にまとめられており、そこから気になる記述をいくつか拾い上げてみます。
                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                             
10月22日(二日目)枝光駅よりの貸切列車にて、17:16大牟田駅着(大牟田での宿泊地については記事無し)。

三池炭鉱視察は三日目になります。
10月23日(三日目)
今日は三池視察の日である。午前八時三池製作所に集合して製作所、製煉所、染料工業所と順次参観した

次の記述が気になる部分です。
午前十時、川端線より特別列車に便乗して萬田駅に着き、萬田坑外の設備を視る
文中にある”川端線”は聞きなれない名称ですが、宮浦駅より染料工業所側に分岐した引込線。ここで一行は”客車”に乗車したようです。宮原坑は車窓から眺めただけか。宮浦~万田間は1920(T9)年には電化されていますが、鉄道の記事は無し。

万田坑視察後、萬田駅より再び”客車”に乗車します。
再び、汽車にて大島駅に着、水洗場を視てから四ツ山坑に赴く
”大島駅”は、大島水洗場の操業に合わせ1926(T15)年5月に設置されたばかりでした。四ツ山駅の旧称です(正しくは大島駅と、初代二代目四ツ山駅は別駅)。四ツ山坑は大島駅からほど近い位置(二頭山の裏側)にあり、1923(T12)年に操業を始めた当時の最新鋭坑です。
”汽車”とあるので、蒸気機関車が客車を牽いた?

四ツ山坑からは自動車にて港倶楽部へ、午後の饗応のあと三池港の視察、午後二時半には三池港から乗船して、この夜は島原にて宿泊。
以下、視察旅行の行程に興味ある方は同記事に当たられたし。それにしても休養日(四日目)を除き、東は宇部(沖の山)から西は端島(高島)までひたすら陸路海路で巡っており、明治人のタフネスさには驚きます。

ちなみに視察団がどのような規模であったかというと(一日目名簿より)
会長 麻生太吉
副会長 松本健次郎
同 貝島太市
以下38名

おそらく、付き人や秘書も随伴(別行動だろうが)していたとすると結構な規模の御一行です。名士のみでも40名を超えるとなると、三池の”客車”はボギー車なのか、それとも鉄道省から客車を借り入れたのか、気になる人数ではあります。

(*1)『石炭時報 第1巻第8号』石炭鉱業連合会1926-11

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