2025年2月24日月曜日

デ3号電源車①

電源車デ形はデ1~4号が製造されましたが、鉄道廃止時にはデ2号を除く3両が残っていました。このうち、デ3号のみ機器の更新が行われ、外観的には機器箱の形態が変化し、床下機器が無くなるなどの特徴が見られます。以下、デ3号の最終的な姿をあげてみました。



機器類は明らかに新しくなったため、てっきり保存対象になるのではと予想していましたが、一番車齢の古いデ1号が保存されたのは意外でした。写真は保守運転の最終日、車庫内入換のために出てきたシーンです。おそらくデ3号+11号電車の最後のバッテリー走行だと思います。


2023(R5)年8月に僚機デ4号とともに現地解体されたため、今となっては更新の具体的内容が不明なのは残念至極です。結局、更新工事は1両のみにとどまったため、経年による機器交換ではなく、損傷レベルの大きなトラブルがデ3号に起こったのではないかとも考えられますが、まったくの推測に過ぎません。旧態と比べると外部表示灯やスイッチ類が加わったことが確認できるので、電気構造的にも変更されていたものと思われます。
ところで更新工事はいつ頃施行されたのでしょうか。わたしの撮影写真では特定できませんでしたので、こころみに宮浦ウオッチャーだったUTXCさんのブログ(『眠れないマクラギを数えて』)の過去記事を遡ると、2009(H21)年7月ではすでに更新されたデ3号が撮影されていました。もっと広く検索すれば、ある程度は絞り込めるかもしれませんが、手間はかかりそう。とりあへずは三井化学専用鉄道以降(1997年~)の可能性が高いように思われます。
デ3号の記事は続けます。

2025年2月18日火曜日

電源車デ形について④

東芝社報「三井鉱山三池港務所電源車 新設計蓄電池を搭載」(*1)より、4回目。文中より気になる記事を摘み喰いします。写真は非電化区間の浅牟田町108号踏切をゆくデ4号+12号電車+コキ200(銀タンコ)。


電源車デ形での20トン電車の運転は、巷説では”化学薬品を扱う工場構内にて着火源となる架線からのスパーク(火花)を無くすため”として言及され、一番のアピールポイントなっています。引火性のある化学薬品を扱う工場構内(専門的には”爆発性雰囲気”という)において、”防爆”がレゾンデートルとなっているのですが、じつは文献(*1)には該当する記述がありません。

蒸気機関車の代替機の選択肢から、電源車導入に至った経緯については必ずしも明確ではありませんが、三池鉄道の既存環境が大きく後押ししたように思われます。すなわち、すでに入換用に適した小型電気機関車が複数台、かつ同型で在籍していたため、電源車という付随車新製が”コスト的”にもっとも優れていたということになります。電気機関車側は小改造で済むことも大きなメリットとなります。もし20トン電車がいなければ、おそらく内燃機関車か、必要ならば蓄電池機関車が登場していたのではないでしょうか。

このあたりの経緯については、電源車デ形について①でも触れました。

ところで、記事中に「防爆」の文言がまったくないという訳ではなく、一ヶ所その記述がみられますので引用しておきましょう。蓄電池の付属品として「防爆形排気せん。客先仕様では防爆の必要はないが充電中に水を分解して酸素と水素を発生するので、電池の付近で裸火を使用したりスパークを飛ばしたりすると爆発の危険性がある。よって潜水艦などに使用して実績のあるセラミック防爆形排気栓を使用し、爆発によって電池を壊したり、人命に危害を加えたりしないように安全性を重視した設計にした」とあります。鉛蓄電池は原理的に水素と酸素の発生が不可避なため、そのガスが溜まった電池槽内に火花が入らないような工夫が必要となり、一方、ガスそのものは安全に外気に拡散されます。蓄電池自体にこのような水素爆発の危険性があることはあまり言及されていませんでした。そういえば、三池港本庫の前にあった電源室(おそらく精製水等が保管)に、”火気厳禁”の看板が掛かっていたのは、このような理由があったように思われます。

(*1)鵜沢正治・山司房太郎「三井鉱山三池港務所電源車 新設計蓄電池を搭載」『東芝レビュー』1963(S38)年10月 東京芝浦電気発行

2025年2月10日月曜日

三池の絵葉書から⑤ 宮浦駅

マイコレクションから宮浦駅の絵葉書🐱
宮浦駅に1990年代まで姿を留めていた石炭ホッパーについては既に2回にまとめましたので、絵葉書から初代ホッパーを取り上げてみます。正しくは”選炭場”と呼ばれる炭鉱施設になり、宮浦駅石炭ホッパー②で取り上げた鉄筋コンクリート建屋の先代にあたります。


絵葉書は「三井三池宮の浦炭坑 Miyanoura Pit,Miike coal Mine」と題した一葉。YSと署名がありますが、これは山田商店の発行を示す略号で、山田商店(山田屋とも)は築町に本店、不知火町(大牟田駅前)に支店、それに大牟田駅待合室に売店があったようです。三池炭鉱との関係は不明ですが、もっとも多くの大牟田絵葉書を発行販売したと思われます。


撮影年代を特定できるものが少ないですが、1888(M21)年より操業を開始した第一立坑しか見えないこと(第二立坑は1919(T8)年開坑)、見える範囲の炭車は4トン車が主力となっていることから、明治後半から大正前半までの間と思われます。
選炭場の5線ある積込線には4トン炭車と8トン炭車が入線していますが、左側2線の入口はやや高くなっているものの、それ以外は炭車ギリギリの高さしかありません。4トン炭車の全高は1962ミリでしたので、おそらく一番低いものは2300ミリも無いのでは。ちなみに8トン炭車の全高は2248ミリです。宮浦坑は鉄道開業時以来の操業坑だったため、当初の4トン炭車の規格に合わせたと考えられますが、他の坑口(七浦・勝立・宮原)も同様でした。積込設備上の制約のため、大型炭車の導入が見送られていた経緯がありましたが、他坑口はそのまま閉坑していくなか、宮浦坑については大型炭車に対応した鉄筋コンクリート造りの選炭場を新築しています。

ところで、この絵葉書はコレクション的には珍しいものではないのですが、面白い”現象”を発見しましたので紹介します。下の絵葉書は「三井三池宮の浦炭坑 Miyanoura Coal Mine Miike」、津村写停車場山田発行(”写”は旧字、”津村”は撮影者か?)です。見ての通り、まったく同じ絵葉書なのですが、汽缶場の煙突が2本に!
じつは最初の絵葉書をよく見ると、横切る電線が途切れており、意図的に煙突1本を消去していました。おそらく下の絵葉書が写真原版のままなのでしょう。わざわざ煙突を消した理由は謎です。

2025年2月7日金曜日

宮浦駅石炭ホッパー②

 この記事は『HP炭鉄』からのサルベージ&リペアになります。

前記事 宮浦駅石炭ホッパー①
宮浦駅の石炭ホッパーをもうひとつ。趣味的にはホッパーと呼んでしまいますが、正しくは”選炭場”です。”せんたんじょう”ではなく、”せんたんば”。選炭とは、坑口から揚げられた原炭より岩石等(廃石、硬、三池では悪石と呼んだ)を取り除き、塊炭を篩分けしてその大きさから分級する作業工程です。
鉄筋コンクリート建ての大型施設でしたが、意外なほど記録された方は少ないような気がします。線路から離れてようやく全体が見渡せるほどで、大きさについての資料がありませんが、推定では線長方向は25メートル、奥行きは5線分なので16メートルほどではないかと思います。窓のある上層部分が選炭場にあたり、その下にホッパーと積込線という多層構造となっています。


下図は「15000屯出炭に対応する鉄道輸送とその施設」(*1)より「宮浦坑との接続関係略図」を引用したもの。原炭は塊炭、悪石、新粉炭、中塊、粉炭に篩分けられ、それぞれの積込線が引き込まれています。


三池炭鉱の選炭場の特徴とまで言えるかどうかは分かりませんが、坑口(三川坑をのぞく)にて選別された石炭は、そのまま直に炭車に積込む方式が取られて、ホッパーの貯炭容量はごく小規模になっています。『三池鉱業所沿革史』(*2)に「選炭機に於いて篩別された塊炭、小塊炭、粉炭等は夫々選炭機室下に敷設した各炭種別の運炭線によって直接大炭車に積込む装置となっており、僅かに「ホッパー」装置を有するのみで、従来各坑共貯炭炭槽の設備は有しない」とあります。文中の”大炭車”が鉄道線の炭車です。このような設備となった理由は記されていませんが、三池港や三池浜の貯炭場との距離が近く、鉄道線によって頻繁輸送が可能なため坑口側で貯炭する必要がなかったためと推測しています。

ホッパーに炭車がいない時もあるのではと心配になりますが、続けて解説されています。「万一大炭車切れした時等は坑口と選炭機間に実函の立函線を設けているので、長時間貨車切れをなす外は殆ど坑内の配函及び出炭には支障を生じない。又運輸課の手配宜敷を得て従来長時間に亘る大炭車の不足を生じたと云うことも殆どなかった」とあります。”函”とあるのが坑内から原炭を揚げてくる鉱車。ただし、宮浦坑独特の設備となりますが、大斜坑が1936(S11)年にベルトコンベア化されて連続的に揚炭されるようになったため、選炭場との間に一時的な原炭貯炭槽を設けています。上図で”原炭ホッパー”とあるのがそれです。
さらに、選炭場からコークス工場への原料炭(粉炭)送炭のためのベルトコンベアが分岐しているは宮浦坑の特徴です。このベルトコンベアは1969(S44)年の宮浦坑閉坑後も引き続き活用されることになりますが、これは別機会にまとめましょう。

下の写真は1年後。ホッパーの宮浦坑面から解体が始まり、3線分を残すのみ。宮浦坑跡地はこの後、煙突回りの一角が宮浦石炭記念公園(1996年11月開園)に、跡地の大部分は大牟田中央工業団地として企業誘致がされます。


完全解体後に宮浦石炭記念公園から見下ろしてみました。コンクリート屑や並べられたレイルが生々しいですが、これらも程なくして撤去されています。


(*1)『三池時報』三井鉱山三池鉱業所1962
(*2)機械編第13巻 三井鉱山1939

2025年1月22日水曜日

宮浦駅石炭ホッパー①

この記事は『HP炭鉄』からのサルベージ&リペアになります。

宮浦駅に石炭ホッパーが姿を留めていた頃の写真をまとめます🐱

1969(S44)年宮浦坑は三川坑との統合により閉坑となりましたが、宮浦石炭記念公園(大斜坑跡)の解説板によれば、1990(H2)年までは大斜坑(1923(T12)年開坑)にて人員や資材搬入が行なわれました。写真は1990年3月に撮った宮浦駅舎正面の光景です。崩れかかった坑外建屋が確認できますが、残念ながら宮浦坑側からは記録していなかったので、何の設備なのかは分かりません。


宮浦駅には2基の石炭ホッパーが残っていました。それぞれタイプが異なり、三池浜寄りには鉄骨組みの1線式ホッパー、万田寄りには鉄筋コンクリート製の5線式ホッパーが建っていました。まずは1線式ホッパーから見てみます。


足元の9号電車と比べると、ひょろっと背の高く好ましい形態です。線長は炭車2両分ぐらいのサイズでしょうか。ただし、わたしが見たときにはすでにホッパーへの給炭設備を失い、孤立したような状態でした。

まずホッパーのスペックですが、「15000屯出炭に対応する鉄道輸送とその施設」(*1)によれば「特粉」と称する粉炭が扱われ、1ピット(貯炭槽)容量50トン×3槽のホッパーとなっています。さらに『模景を歩く』(*2)にて、もっと近接して模型的な視点から紹介されており大いに参考になります。同著より三池鉱業所提出の概略図によれば、側面は12100ミリ(脚間はそれぞれ4050/4000/4050ミリ)、線路面径間3140ミリ、上部覆屋を含めた高さ14950ミリとなっています。積込口下端は地上3600ミリあり、セナ形炭車(=セラ1形/全高3070ミリ)への積込も可能。積込口は手動(錘式)で宮浦坑面に架台、両端に階段がありました。

ホッパーの三池浜側にある鉄骨で組まれた足場のようなものはベルトコンベア施設跡です。ベルトコンベアは宮浦坑(および打込ピットから)からコークス原料となる石炭(原料炭という)を送炭するための施設で、宮浦坑から操車場と宮浦駅舎の上空を越えて、三井コークスの精炭槽の間に架かっていました。ホッパーには、この本線ベルトから分岐したベルトコンベアが架かり、浜側側面には取付跡が残っていました。

続く。

(*1)『三池時報』三井鉱山三池鉱業所1962
(*2)ネコ・パブリッシング2003(改訂新版2018)

2025年1月12日日曜日

三池鉄道の炭車略史②

直近情報になりますが、ステーションゼロの2025年1月の公開日は1月25日と26日となりました。26日(日)は万田坑と同時運転日となります。以降、公開予定については公式インスタをチェックされたし。

本題。
三池鉄道線内にて使われた社形炭車についてまとめます。

前記事はこちらより🐱


炭車略史①にて炭車4形式(4~7~8~16トン)を通観しましたが、時代的には戦前編となりましたので、略史②は戦後編となります。戦中期については資料が乏しいですが、炭車については新形式が導入された形跡が見つかりませんでした。以下、時代背景的な推論になりますが、戦局悪化につれて三池港からの海上輸送が次第に困難となり、もっぱら大牟田荒尾経由の鉄道輸送にシフトしたためではないかと考えています。

戦後間もなくして炭車増備が再開されましたが、新製車ではなく、国鉄からの譲受車で賄われるようになったのが戦前期との大きな違いとなります。ただし、三池入線後に社内にて更新や修繕がその都度行われたため外観にヴァリエーションが生まれたほか、制動機に改造が加えられています。


10トン積炭車の登場(1947(S22)~)

10トン炭車は、国鉄(正しくは運輸省鉄道総局)セ50形10トン積石炭車を譲受してセ形としたグループです。国鉄では、1947(S22)年の「第一次貨車特別廃車」によって大量の老朽貨車や不良貨車を廃車としましたが、その一部は民間企業に払い下げられています。三池においてもセ50形のほか、無蓋車を大量に譲受しています。

セ形はセ1001号~から附番されました。セ形の詳細は不明点が多いのですが、番号体系からすると合計260両を越える両数となっています。竣工図表より、その履歴は3パターンが確認できます。
①国鉄セ50形→三池セヤ形として入線→セ形に改称改番
②国鉄セ50形→三池セ形
③三池セヤ形→増トン改造しセ形に編入

セ形は三池入線時ですでに老朽車だったこともあり廃車ペースは速く、昭和40年代までには大部分は廃車になっています。ただ1両、石炭車としての用途ではありませんでしたが、セ1026号が九電港発電所構内の作業用として残っていました(文献*1)。

(文献*1)『RAILFAN778号』「三井三池専用鉄道の車両6」に写真あり。

セヤ形炭車・セロ形炭車の連結器交換(1952(S27)

三池貨車は、開業当初より連環式連結器を採用してきましたが、戦後国鉄より大量の自動連結器車両が入線したことにより、ようやくながら社形車両の自動連結器交換がおこなわれました。その施行は1952(S27)年に竣工しています。このうち、セヤ形は改造車よりセヤ2001号~に改番されました。

15トン積炭車の登場(1958(S33)~)

15トン炭車は、国鉄セム1形15トン積石炭車を譲受してセコ形としたグループです。1958(S33)年より譲受を開始してセコ1号~より附番、1969(S44)年までの長期にわたり増備して合計325両となっています。導入途中、一部は屋根カバーを設けて燐鉱石ホッパー車(ホロ形)に改造されたのち、セコ形に復帰した車両があります。

戦後、次々と譲受車が入線したことにより、昭和40年代初頭の炭車はかなりのヴァリエーションとなっていました。参考までに1967(S42)年5月の在籍炭車は以下のようになっていました。この時点では両数的にはセコ形がおよそ半数を占めていましたが、車令的には戦前のセロ形のほうが若いため、この後の廃車ペースはセコ形が先になります。一方、セ形とセヤ形は終焉期ですね。

セロ形16トン積炭車 162両
セ形10トン積炭車  100両
セヤ形8トン積炭車  48両
セコ形15トン積炭車 286両 

17トン積炭車の登場(1975(S50)年~)

17トン炭車は、国鉄セラ1形17トン積石炭車を譲受、セナ形としたグループです。1975(S50)年より譲受を始め、セナ001号~を附番しました。国鉄の九州石炭輸送の終焉期にあたり、まとまった両数での譲受がおこなわれ、合計358両が増備されています。このうち、セナ291号~308号は元三井鉱山所有の私有貨車ホラ1形セメント17トン積ホッパー車となっており、炭箱形態が異なっていました。
セナ形は三池鉄道が最後に増備した炭車となり、1997(H9)年3月の閉山まで稼働しています。最終期はセナ形のみで編成が組まれ、火力発電所への燃料炭輸送が行われました。

2025年1月5日日曜日

単機の9号電車

 投稿間隔がずいぶん空いてしまった...ので、まずは近況を整理。

2024年11月3日(文化の日)は、ふたたび万田坑の12号電車、ステーションゼロの19号電車の同日運転となりました。それぞれ万田坑が「オータムフェスタ」、ステーションゼロが「炭鉱電車フェスタ」として入場無料のイベントを開催しています。SNS等でのリポートをみると、とくに初開催となった炭鉱電車フェスタでは、アイドルのライブコンサートとのコラボという新たなジャンルを開拓したことが特筆されます🐱

ところで、"11月3日"といえば偶然にも三池鉄道最初の区間(横須浜~宮浦坑)の開通日という記念日にあたります。このことを以前にまとめましたので、参考まで。

炭鉱電車「鉄道の日」

少し前までは「近代化遺産一斉公開日」として馴染みのある日でもあり、2025年以降も同時開催が期待できそうです。


新年の初投稿は軽いネタから🐱

9号(現:三井化学保管)、11号(現:ステーションゼロ)、12号(現:万田坑)の20トン電車は、三井化学時代には、20トン電車3台×電源車3両で一致していたので、常に電源車デ形とのペアの姿がデフォルトでした。いっそのこと、テンダーとして20トン電車の一部とした方が、税金対策にはお得なのではと思ったりもしましたが、実際には検査周期の違いでペアの組合せはその都度変化しています。おそらく、どちらかの検査時以外は連結を解くことがなかったのではと思います。
もちろん、20トン電車単機での稼働は可能ですが、この姿で仕業に就くのを見ることはありませんでした。ある日、宮浦車庫をいつものようにのぞいたところ、単機の9号電車がそろそろと車庫から出てきました。すぐに庫内に戻ってしまいましたが、なんか得した気分でした。たまたま相方となる電源車が検査中だったのでしょうね。


2024年10月12日土曜日

三池の絵葉書から④ 勝立坑

先月の2024年9月22日(日)は、万田坑12号電車の運転日(第4日曜)と、ステーションゼロ19号の運転日(第3土日)が偶然にも重なり、初の同時開催日となりました。はたして相乗効果は如何。ちなみに運転日の曜日パターンに変更がなければ、1日(日)となる月間が22日(日)に同時開催となるので、この先は2024年12月(→2024年12月14日15日に期日変更)、2025年6月、2026年2月と意外に少ない😿


マイコレクションから勝立坑の古絵葉書🐱
「三井三池炭礦勝立坑」は熊本市西通町濱田印刷発行です。濱田印刷の詳細は不明ですが、検索した限りではおもに熊本県内の絵葉書がヒットします。わたしも他に万田坑絵葉書を所蔵していました。鮮明な印刷で資料性が高く、三池シリーズとして発行されているならば、是非ともコンプリートしたいところですが、出物はほとんど見かけません。
ところで勝立の読み方ですが、現在は”カツダチ”とするのが正式です。今回の絵葉書には英語振りが無いのですが、手元にある他の絵葉書を見ただけでも、”KACHIDACHI”、”KATSUTATE”、”KATSUDATE”、”KATSUDATSU”、”Cattachi”と実に様々。地元の人の発声では、わたしには”カッダチ”に聞こえます。


勝立坑は、三池炭鉱の近代坑口ではもっとも東に位置します。官営時代の1885(M18)年11日開鑿着工、有力坑として見込まれて鉄道敷設が計画されるほどでしたが、湧水多量のため難航します。三井の経営に移ってからも工事が再開されましたが、1889(M22)年7月金峰山地震(明治熊本地震)により完全に水没したため、團琢磨の提案により英国製デビーポンプを導入、デビーポンプは遺憾なく威力を発揮して1893(M26)年排水に成功、1898(M28)年4月より操業を開始しています(勝立第一立坑)。勝立坑開坑の経緯は三井三池創業時のエピソードとして必ず語られて、三池炭鉱の明治大正期を支えた坑口のひとつとなりました。第二立坑は1895(M28)に開鑿着工、同年中に開坑。


勝立駅は勝立線の終点となる駅です。絵葉書中央に見えるのが駅舎。1893(M26)年12月免許を受け、1894(M27)年3月運輸開始しました。一段高い位置に揚炭坑口を設け、選炭場から炭車に直接積込む施設配置は、万田坑などの他の坑口と同様です。選炭場の裏側に遷車台があり、積込線に炭車を振り分けます。右端の上がっていく線路は汽缶場線。手前側の汽缶場煙突は八角形の断面となっているのが珍しい。勝立線の電化は1920(T9)年10月なので、絵葉書はそれ以前に撮影されたものとなります。

勝立坑は1928(S3)年6月閉坑し、坑外施設はすべて解体されました。同年12月までに勝立駅構内線が撤去、勝立線も1932(S7)年3月に撤去されました。勝立駅構内跡は2000年代初頭までグラウンド?として空き地になっていましたが、今は区画整理された住宅地となったため、絵葉書と同じ位置に立つこと出来ません。下の写真は住宅地となる以前に、第二立坑基礎跡を望んだ構図ですが、おそらく選炭場があった付近と思われます。


勝立線は戦時中に再敷設され1969(S44)年1月に2度目の廃線となりますが、絵葉書からは離れますので、この話は別の機会に。

2024年9月29日日曜日

三池鉄道メモ② 玉名線

単発ネタをメモ、以降の課題資料とします。
今回は玉名線の記事から🐱

原万田~平井間を結んだ玉名線(4.1キロ)は、通勤列車が走った路線として知られていますが、もとを辿れば”三井化学工業専用鉄道”として敷設された純然たる産業鉄道でした。通称、玉名専用鉄道。1944(S19)年の運輸開始以来、実質的に三井鉱山が運営していましたが、1961(S36)年10月三井鉱山に譲渡、玉名線となります。
1969(S44)年刊行の『荒尾近代史』(*1)より交通機関の章にて、玉名線に触れた記事がありましたので引用しましょう。なお、”炭鉱電車”という呼称を使っていることも注目されます。

「昭和24(1949)年2月1日に開通した四ツ山、緑ヶ丘間の炭鉱電車は、緑ヶ丘に居住する一万名の三井系炭鉱並びに会社従業員とその家族の通勤、その他の弁に供せられているが無賃であるので、三井関係従業員とその家族以外の乗車は禁じられている」

文中、”1949年2月1日開通”とありますが、これは路線の竣工開通日ではなく、平井駅まで通しで通勤列車が走った日付と思われます。三池港務所がまとめた年表によれば、三池港~平井間の通勤列車は以下の3段階を経て延長されています。

1948(S23)年5月大谷~西原間開始
1948(S23)年11月西原~三池港間開始
1949(S24)年2月大谷~平井間開始

刊行時点(1969)では、三池鉄道は”地方鉄道”として営業(1964~1973)していたので、誰でも乗車できたはずなのですが、文中では従業員及び家族のみの乗車が可としています。地元でも三井関係以外の住人は乗り難い雰囲気があったのか、勘繰ってしまいますね。無論、無賃ではありません。

通勤列車が走り始めたのは玉名専用鉄道時代ですが非電化での敷設でした。以下の記述から、当初は蒸気機関車が客車牽引していたことが分かります。これは貴重な資料となります。

「この炭電は最初明治三五年式八号型蒸気機関車を用いていたが、昭和27(1952)年3月より、電気機関車に切替え、現在に及んでいる」

”明治三五年式8号型”という何やら格式ばった形式で呼ばれていますが、これはH.K.Porter製の22トンクラスのことです。三池鉄道では、1902(M35)年から8~16号を同一形式で揃えて長年愛用されました。ポーター蒸機の牽く客車列車、残念ながら映像資料は未見ですが、4年に満たないわずかな運用期間でしたので、見つかれば大発見もの間違いないです。

(*1)荒尾市郷土資料作成委員会編 1969(S44)荒尾市教育委員会発行

2024年9月26日木曜日

デ1号電源車⑪

まだまだデ1号電源車を観察🐱
今回は、12号電車との連結側になる後位を見てみます。
すでに前位についてはデ1号電源車⑩としてまとめました。



3本のケーブルが存在感を放っています。デ1号(4位側)と12号(3位側)に赤-緑-黒のソケットが並び、プラグによってケーブルが結ばれています。デ1号にはソケットが2組並びますが、上段はケーブルを畳んだ時の電車側プラグの収納用です。これら機器は、おそらく三井化学(1997~)以降に更新されたものと思われ、原型ではジャンパ栓タイプの大柄なものでした。いずれも型番よりユタカ製作所(群馬県)の防水型コネクタで、赤と緑は高圧用のYH400シリーズ、黒は低圧用多芯のMYシリーズとなっています。ケーブル表記までは見ていませんでしたが、黒のみやや太くなっています。原型の色分けを踏襲しているならば、ケーブルそれぞれの役目は、赤(プラス)と緑(マイナス)が電源線、黒は制御線と思われます。
”通電中”の吊り札とチェーンは万田展示以降の追加で、もちろん現役時代にはありませんでした。


連結器を見てみます。デ1号の後位側の解放装置が下作用式となっているのが特徴です。デ1号の種車ハコ1号無蓋車は上作用式と推測されるので、デ形改造時に取替えられたと思われます。解放テコがテコ止にてインシュロックでがっちり固定されているのは悪戯防止のためでしょうか、むろん展示以降の処置です。なお、12号電車の解放テコの上揚釣が外されているのは現役時代から。基本的に検査時以外は連結を解くことがないためだと思います。

ところで今回、写真を探していて気付いたのですが、エアーホース(直通ブレーキなので直通管)のアングルコックが閉じられています。展示運転中も”閉”だったので、すなわちデ1号のエアーブレーキは使用していませんでした。12号電車の制動力で充分と判断されたようです。



4位側車端には、ステップと握り棒が設けられています。いずれも黄色く塗られていて目立ちますが、実際にこのステップに添乗している場面は見たことがありません。車台にあがる足掛けは、側ブレーキのステップを兼ねており、大き目に作られています。



3位側の車端にはステップはありませんが、車台にあがるための簡易な足掛けが側面にあります。
機器箱から車端側に出っ張るかたちで箱モノがありますが、実はここに何の機器が収まっているのかよく分かりません。機器箱とは仕切られている、点検蓋がない、通風孔があることが確認できます。両側面にフックがあるので、外箱は上から覆い被さっているように見えます。

2024年9月19日木曜日

三池鉄道の炭車略史①

この記事は『HP炭鉄』からのサルベージ&リペアになります。


三池鉄道では石炭車を"炭車"と称しました。まず炭車略史①として、1891(M24)年の三池鉄道開通~1940年代迄をまとめます。この50年間を一言でいえば、三池形炭車の時代となると思います。4トン-8トン-16トンという倍数的に大型化したオリジナルな炭車を新製し、世代交代を果たしました。


4トン積炭車の登場(1891(M24)~)

1891(M24)年12月の鉄道運転開始から炭車を用いた石炭輸送が始まります。横須船積場~七浦坑間を開通した際、最初に採用した炭車は4トン炭車でした。「最初の炭車は木製4トン、底に2ヶの開閉戸があって、船積みの際にこれを開いて石炭を落下させる装置である」(*文献1)とあります。

三池炭車の特徴として底開きホッパーカーということが挙げられます。”底開き”とは炭箱の底扉によってレイルの間に石炭を卸す仕組みです。底開きは筑豊炭田を控えた筑豊興業鉄道も採用し、九州地方の石炭車の標準仕様として普及しましたが、三池鉄道との技術的な繋がりについて言及した文献は見つかりませんでした。多くの鉄道史文献では、1893(M26)年筑豊興業鉄道が採用した6トン積み鉄製石炭車(英国ラムソン&レピーヤ製)を嚆矢としており、一方、鉱山史からは三池炭車を嚆矢とする記述が見られること(*1)は注目すべきだと思います。

以降、単位4トンは三池貨車の基準になりました。4トン炭車1両が馬車軌道の鉱車(0.44トン)の9車分(およそ2列車分)になり、輸送力を桁違いにアップさせました。また”船積”とあるように、底開きという炭車構造と、横須船積場の「高架桟橋」との組み合わせによって、船積みの時間短縮と省力化が達成されました。たとえば70トンを船積する場合、「170の小炭車と30馬匹を要し、1時間以上を費せしも、汽車用炭車は僅か18台、時間12分を以て積み移し得る」(*文献1)と簡潔に比較されています。三池鉄道では、高架桟橋から自然落下によって炭車から直に船積する方法は横須船積場に見られ、三池港では船積機を介した機械荷役へと移りましたが、高架桟橋は三池港貯炭場の施設としてより大規模に用いられました。

4トン炭車は1890(M23)年中から製造が開始され、鉄道開通時には100両が用意されといいます。その後、1901(M34)年までに総数324両(総荷重1296トン)まで増備されました。時代的には万田坑開鉱や、三池港築港工事の開始などが区切りとなりました。4トン炭車は、およそ明治年間の主力炭車でしたが、大正半ば過ぎから両数を減らし、使用廃止は1933(S8)年となりました。


8トン積炭車の登場(1905(M38)~)

8トン炭車は、1905(M38)年5月まず25両が登場し(*文献2)、1930(S5)年までの長期間にわたり合計485両(総荷重3880トン)が新製増備されました。特徴として、4トン車の2車分に大型化されたこと、鉄製車ということが挙げられます。また製造にあたって鉄道車輌メーカーが参加しています。鉄製で耐久性があったことから長期にわたって用いられました。大正時代はおおむね、4トン・8トン車の時代といえ、4トン車と混用された編成も見られます。また戦後には炭箱嵩上げによって多くが10トン積車セ形に改造されました。セヤ形としては1960年代まで現役だったと思われます(*文献3)。
8トン車は三池港に対応した大型炭車と位置づけることが出来ます。三池鉄道開通当初、1892(M25)年の出炭量は46万トンでしたが、勝立坑、宮原坑、万田坑の開坑によって、1907(M40)年には148万トンと3倍増となりました。この間、4トン炭車の約250両の増備や、本線の中央区間(宮浦坑~七浦坑)の複線化が図られていますが、官営時代以来の最大懸案(大牟田港から口之津港への中継航送)は、三池港築港による決着を待たなくてはなりませんでした。三池港の開港とともに、宮浦~三池港という本線の大部分が複線化され、あわせて重軌条化が図られました。
8トンが新単位になったことは、三池港の船渠岸壁に3台備えられた石炭船積機(ダンクロ・ローダー)のバケッツ容量が8トンということからもうかがえます。船渠岸壁に平行して設けられた四ツ山貯炭場から、15トン電車牽引の8トン車8両という編成で船積機に連続送炭されました。


16トン積炭車の登場(1934(S9)~)

16トン炭車は、8トン炭車をさらに2車分大型化し、三池形炭車の完成型となった形式です。1934(S9)~1938(S13)年の短期間の新製増備ながら、合計240両新造。総荷重3840トンは4トン車と同じ輸送力を確保しています。世代的には7トン車の代替えとなりますが、地上設備の改良(および旧坑の閉坑)により大型炭車の導入が可能になりました。
8トン車の2車分ということは、炭箱の構造にも現れていて、中央仕切りによって8トンづつの2室に分かれています(それぞれに底扉は2つ)。これは先述した、船積機の規格に沿ったものと思われます。形態的にも類似車輌がいない、車高を抑えた(その分、車長が長い)、独特なスタイルをしています。16トン炭車は平成時代まで生き残りました。


7トン炭車の購入(1913(T2)~)

7トン炭車は、「明治41(1908)年6月から初めて宮浦立坑で土砂充填が開始されるに至って、浜駅構内の殻捨から焚殻を炭車に積んで宮浦に輸送されるようになり、後の充填列車の魁となった。…その後、充填列車整備のこととなり、国有鉄道の中古車118両を大正2、3年にかけて購入、4年8月大浦採鉱所の土砂積に使用」(文献1)とあり、このことを鉄道統計から補うと、大正2(1913)年版に底開き石炭車45両、大正3(1914)年版にも同型73両が三井鉱山譲渡と記され、記事と一致しています。
当時、鉄道院では石炭車の増トン改造(9トン、13トン化)の最中で、その一方で改造不適格となった石炭車(全鉄製車以外)を民間に放出しており、これらを三池にて譲受したものです。7トン車は鉄製台枠に木製炭箱を載せた木鉄混製車で、1934(S9)年まで使用されました。8トン車などと混成の編成を組んだ写真もあるので、石炭車として使用されることも多かったと思われます。


(*1)例えば『鉱山発達史』(1900(M33)年)など。
(*2)製造に関しては不詳点が多いが、三池鉱業所総年譜によれば1890(M23)年1月製造着手。
(*文献1)『三井鉱山五十年史稿本』より。
(*文献2) 『三池炭鉱専用鉄道概要』より。
(*文献3)『鉄道ファン21号』1963-3より。1962(S37)年撮影としてセヤ2047号が目撃されている。

2024年9月15日日曜日

三池の絵葉書から③ 万田駅

マイコレクションから万田坑の古絵葉書🐱
末藤書店発行の三井三池炭礦萬田坑 MITSUI’S MANDA COLLIERY AT MIIKEです。”COLLIERY”はCOAL MINEと同義で、炭鉱のこと。末藤書店(末藤書画店とも)の詳細は不明ですが、三池炭鉱明治期の絵葉書を多く残しています。ただし、題材の年代的に大正期のものがないので、明治末年までに廃業したのではと推測しています。
この絵葉書は万田坑を北側から見ており、手前には現存する第二立坑、奥に第一立坑という構図です。万田坑の絵葉書は第一立坑を主題にした南西側が圧倒的に多いので、この点から貴重な映像資料です。絵葉書を細かく見ると、第二立坑櫓には足場が架かっていることと、巻上機室の建屋がない(巻上機らしきものは写っています)ことから、まだ建造途上の様子に見えます。第二立坑は1898(M31)3月開鑿着手、1908(M41)年3月操業開始。




線路は三池本線。複線路にみえますが、宮原~万田間の複線化は1908(M41)年7月運輸開始です。また、選炭場を線路が通り抜けていないように見えますが、当初の配線では選炭場北側に遷車台(トラバーサー)を設けて、炭車を振り分ける方法が取られていました。以上のことから、この絵葉書は1907~1908年頃の撮影ではないかと推測されます。

2023年1月より、選炭場跡には12号電車+デ1号と18号電車が保存されています。ストリートビューにて絵葉書と同じ構図を再現。そもそも廃線跡にストリートビューとは😹


選炭場の在所は現荒尾市(当初は荒尾村)、北面傍に市境があり絵葉書の撮影位置は現大牟田市(当時は駛馬村)となります。ストリートビューは保存車両の置かれる前の2015年モノですが、景色的には今ももまったく変わっていません。保存車両は荒尾市所有なので、荒尾市内に敷かれた50mほどのレイルにて動態保存(12号電車)されています。絵葉書でいえば、選炭場の向こう側ということになります。

なお、NPO炭鉱電車保存会(大牟田市)では、市境をこえた大牟田市内に線路を延長し、動態保存のエリアを拡大して新たな景観を造ることを提言しています。三池本線の復活ですね。

2024年9月11日水曜日

三池鉄道メモ① 視察客車

単発的なネタをメモ、以降の課題資料とします。

三池鉄道の謎車輌について。
三池の客車といえば通勤輸送に用いられたコハ形・ホハ形はよく知られていますが、じつは明治期より1両の客車が在籍していました。『三池港務所沿革史』より「明治35年(*1902)に客車1両を製造せられ、社内見学視察者等の乗用に使用」とあります。竣工図表は添付されていないため、どのような客車であったのかは皆目不明で、どこで製造されたのかも分かりません。無論、写真も未発見です。1902(M35)年~1936(S11)年は1両が在籍、形式称号の改正があった1937(S12)年以降は”その他”の車輛に括られたようで、在籍については追跡できません。1902年製ということから”東洋一”の万田坑開坑(1902年11月操業開始-1903年3月開坑式)の見学者に対応したものと思われます。やんごとなき方々の乗車機会があるでしょうから、客室内もそれなりであったのだろうと想像するしかありません。

ところで、この客車(形式も車号も不明のままですが)、実際に使われた事例を探していたら、それらしい記事を見つけたので合わせて引用しておきます。
1926(T15)年10月21日~10月29日に石炭礦業連合会主催にて、会員による九州視察旅行が行われました。行程については清宮生「視察団に伍して」(*1)という記事にまとめられており、そこから気になる記述をいくつか拾い上げてみます。
                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                             
10月22日(二日目)枝光駅よりの貸切列車にて、17:16大牟田駅着(大牟田での宿泊地については記事無し)。

三池炭鉱視察は三日目になります。
10月23日(三日目)
「今日は三池視察の日である。午前八時三池製作所に集合して製作所、製煉所、染料工業所と順次参観した」

次の記述が気になる部分です。
「午前十時、川端線より特別列車に便乗して萬田駅に着き、萬田坑外の設備を視る」
文中にある”川端線”は聞きなれない名称ですが、宮浦駅より染料工業所側に分岐した引込線。ここで一行は”客車”に乗車したようです。宮原坑は車窓から眺めただけか。宮浦~万田間は1920(T9)年には電化されていますが、鉄道の記事は無し。

万田坑視察後、萬田駅より再び”客車”に乗車します。
「再び、汽車にて大島駅に着、水洗場を視てから四ツ山坑に赴く」
”大島駅”は、大島水洗場の操業に合わせ1926(T15)年5月に設置されたばかりでした。四ツ山駅の旧称です(正しくは大島駅と、初代二代目四ツ山駅は別駅)。四ツ山坑は大島駅からほど近い位置(二頭山の裏側)にあり、1923(T12)年に操業を始めた当時の最新鋭坑です。
”汽車”とあるので、蒸気機関車が客車を牽いた?

四ツ山坑からは自動車にて港倶楽部へ、午後の饗応のあと三池港の視察、午後二時半には三池港から乗船して、この夜は島原にて宿泊。
以下、視察旅行の行程に興味ある方は同記事に当たられたし。それにしても休養日(四日目)を除き、東は宇部(沖の山)から西は端島(高島)までひたすら陸路海路で巡っており、明治人のタフネスさには驚きます。

ちなみに視察団がどのような規模であったかというと(一日目の名簿より)
会長 麻生太吉
副会長 松本健次郎
同 貝島太市
以下38名

おそらく、付き人や秘書も随伴(別行動だろうが)していたとすると結構な規模の御一行です。名士のみでも40名を超えるとなると、三池の”客車”はボギー車なのか、それとも鉄道省から客車を借り入れたのか、気になる人数ではあります。

(*1)『石炭時報 第1巻第8号』石炭鉱業連合会1926-11