2024年10月12日土曜日

三池の絵葉書から④ 勝立坑

先月の2024年9月22日(日)は、万田坑12号電車の運転日(第4日曜)と、ステーションゼロ19号の運転日(第3土日)が偶然にも重なり、初の同時開催日となりました。はたして相乗効果は如何。ちなみに運転日の曜日パターンに変更がなければ、1日(日)となる月間が22日(日)に同時開催となるので、この先は2024年12月(→2024年12月14日15日に期日変更)、2025年6月、2026年2月と意外に少ない😿


マイコレクションから勝立坑の古絵葉書🐱
「三井三池炭礦勝立坑」は熊本市西通町濱田印刷発行です。濱田印刷の詳細は不明ですが、検索した限りではおもに熊本県内の絵葉書がヒットします。わたしも他に万田坑絵葉書を所蔵していました。鮮明な印刷で資料性が高く、三池シリーズとして発行されているならば、是非ともコンプリートしたいところですが、出物はほとんど見かけません。
ところで勝立の読み方ですが、現在は”カツダチ”とするのが正式です。今回の絵葉書には英語振りが無いのですが、手元にある他の絵葉書を見ただけでも、”KACHIDACHI”、”KATSUTATE”、”KATSUDATE”、”KATSUDATSU”、”Cattachi”と実に様々。地元の人の発声では、わたしには”カッダチ”に聞こえます。


勝立坑は、三池炭鉱の近代坑口ではもっとも東に位置します。官営時代の1885(M18)年11日開鑿着工、有力坑として見込まれて鉄道敷設が計画されるほどでしたが、湧水多量のため難航します。三井の経営に移ってからも工事が再開されましたが、1889(M22)年7月金峰山地震(明治熊本地震)により完全に水没したため、團琢磨の提案により英国製デビーポンプを導入、デビーポンプは遺憾なく威力を発揮して1893(M26)年排水に成功、1898(M28)年4月より操業を開始しています(勝立第一立坑)。勝立坑開坑の経緯は三井三池創業時のエピソードとして必ず語られて、三池炭鉱の明治大正期を支えた坑口のひとつとなりました。第二立坑は1895(M28)に開鑿着工、同年中に開坑。


勝立駅は勝立線の終点となる駅です。絵葉書中央に見えるのが駅舎。1893(M26)年12月免許を受け、1894(M27)年3月運輸開始しました。一段高い位置に揚炭坑口を設け、選炭場から炭車に直接積込む施設配置は、万田坑などの他の坑口と同様です。選炭場の裏側に遷車台があり、積込線に炭車を振り分けます。右端の上がっていく線路は汽缶場線。手前側の汽缶場煙突は八角形の断面となっているのが珍しい。勝立線の電化は1920(T9)年10月なので、絵葉書はそれ以前に撮影されたものとなります。

勝立坑は1928(S3)年6月閉坑し、坑外施設はすべて解体されました。同年12月までに勝立駅構内線が撤去、勝立線も1932(S7)年3月に撤去されました。勝立駅構内跡は2000年代初頭までグラウンド?として空き地になっていましたが、今は区画整理された住宅地となったため、絵葉書と同じ位置に立つこと出来ません。下の写真は住宅地となる以前に、第二立坑基礎跡を望んだ構図ですが、おそらく選炭場があった付近と思われます。


勝立線は戦時中に再敷設され1969(S44)年1月に2度目の廃線となりますが、絵葉書からは離れますので、この話は別の機会に。

2024年9月29日日曜日

三池鉄道メモ② 玉名線

単発ネタをメモ、以降の課題資料とします。
今回は玉名線の記事から🐱

原万田~平井間を結んだ玉名線(4.1キロ)は、通勤列車が走った路線として知られていますが、もとを辿れば”三井化学工業専用鉄道”として敷設された純然たる産業鉄道でした。通称、玉名専用鉄道。1944(S19)年の運輸開始以来、実質的に三井鉱山が運営していましたが、1961(S36)年10月三井鉱山に譲渡、玉名線となります。
1969(S44)年刊行の『荒尾近代史』(*1)より交通機関の章にて、玉名線に触れた記事がありましたので引用しましょう。なお、”炭鉱電車”という呼称を使っていることも注目されます。

昭和24(1949)年2月1日に開通した四ツ山、緑ヶ丘間の炭鉱電車は、緑ヶ丘に居住する一万名の三井系炭鉱並びに会社従業員とその家族の通勤、その他の弁に供せられているが無賃であるので、三井関係従業員とその家族以外の乗車は禁じられている

文中、”1949年2月1日開通”とありますが、これは路線の竣工開通日ではなく、平井駅まで通しで通勤列車が走った日付と思われます。三池港務所がまとめた年表によれば、三池港~平井間の通勤列車は以下の3段階を経て延長されています。

1948(S23)年5月大谷~西原間開始
1948(S23)年11月西原~三池港間開始
1949(S24)年2月大谷~平井間開始

刊行時点(1969)では、三池鉄道は”地方鉄道”として営業(1964~1973)していたので、誰でも乗車できたはずなのですが、文中では従業員及び家族のみの乗車が可としています。地元でも三井関係以外の住人は乗り難い雰囲気があったのか、勘繰ってしまいますね。無論、無賃ではありません。

通勤列車が走り始めたのは玉名専用鉄道時代ですが非電化での敷設でした。以下の記述から、当初は蒸気機関車が客車牽引していたことが分かります。これは貴重な資料となります。

この炭電は最初明治三五年式八号型蒸気機関車を用いていたが、昭和27(1952)年3月より、電気機関車に切替え、現在に及んでいる

”明治三五年式8号型”という何やら格式ばった形式で呼ばれていますが、これはH.K.Porter製の22トンクラスのことです。三池鉄道では、1902(M35)年から8~16号を同一形式で揃えて長年愛用されました。ポーター蒸機の牽く客車列車、残念ながら映像資料は未見ですが、4年に満たないわずかな運用期間でしたので、見つかれば大発見もの間違いないです。

(*1)荒尾市郷土資料作成委員会編 1969(S44)荒尾市教育委員会発行

2024年9月26日木曜日

デ1号電源車⑪

まだまだデ1号電源車を観察🐱
今回は、12号電車との連結側になる後位を見てみます。
すでに前位についてはデ1号電源車⑩としてまとめました。



3本のケーブルが存在感を放っています。デ1号(4位側)と12号(3位側)に赤-緑-黒のソケットが並び、プラグによってケーブルが結ばれています。デ1号にはソケットが2組並びますが、上段はケーブルを畳んだ時の電車側プラグの収納用です。これら機器は、おそらく三井化学(1997~)以降に更新されたものと思われ、原型ではジャンパ栓タイプの大柄なものでした。いずれも型番よりユタカ製作所(群馬県)の防水型コネクタで、赤と緑は高圧用のYH400シリーズ、黒は低圧用多芯のMYシリーズとなっています。ケーブル表記までは見ていませんでしたが、黒のみやや太くなっています。原型の色分けを踏襲しているならば、ケーブルそれぞれの役目は、赤(プラス)と緑(マイナス)が電源線、黒は制御線と思われます。
”通電中”の吊り札とチェーンは万田展示以降の追加で、もちろん現役時代にはありませんでした。


連結器を見てみます。デ1号の後位側の解放装置が下作用式となっているのが特徴です。デ1号の種車ハコ1号無蓋車は上作用式と推測されるので、デ形改造時に取替えられたと思われます。解放テコがテコ止にてインシュロックでがっちり固定されているのは悪戯防止のためでしょうか、むろん展示以降の処置です。なお、12号電車の解放テコの上揚釣が外されているのは現役時代から。基本的に検査時以外は連結を解くことがないためだと思います。

ところで今回、写真を探していて気付いたのですが、エアーホース(直通ブレーキなので直通管)のアングルコックが閉じられています。展示運転中も”閉”だったので、すなわちデ1号のエアーブレーキは使用していませんでした。12号電車の制動力で充分と判断されたようです。



4位側車端には、ステップと握り棒が設けられています。いずれも黄色く塗られていて目立ちますが、実際にこのステップに添乗している場面は見たことがありません。車台にあがる足掛けは、側ブレーキのステップを兼ねており、大き目に作られています。



3位側の車端にはステップはありませんが、車台にあがるための簡易な足掛けが側面にあります。
機器箱から車端側に出っ張るかたちで箱モノがありますが、実はここに何の機器が収まっているのかよく分かりません。機器箱とは仕切られている、点検蓋がない、通風孔があることが確認できます。両側面にフックがあるので、外箱は上から覆い被さっているように見えます。

2024年9月19日木曜日

三池鉄道の炭車略史①

この記事は『HP炭鉄』からのサルベージ&リペアになります。


三池鉄道では石炭車を"炭車"と称しました。まず炭車略史①として、1891(M24)年の三池鉄道開通~1940年代迄をまとめます。この50年間を一言でいえば、三池形炭車の時代となると思います。4トン-8トン-16トンという倍数的に大型化したオリジナルな炭車を新製し、世代交代を果たしました。


4トン積炭車の登場(1891(M24)~)

1891(M24)年12月の鉄道運転開始から炭車を用いた石炭輸送が始まります。横須船積場~七浦坑間を開通した際、最初に採用した炭車は4トン炭車でした。「最初の炭車は木製4トン、底に2ヶの開閉戸があって、船積みの際にこれを開いて石炭を落下させる装置である(*文献1)とあります。

三池炭車の特徴として底開きホッパーカーということが挙げられます。”底開き”とは炭箱の底扉によってレイルの間に石炭を卸す仕組みです。底開きは筑豊炭田を控えた筑豊興業鉄道も採用し、九州地方の石炭車の標準仕様として普及しましたが、三池鉄道との技術的な繋がりについて言及した文献は見つかりませんでした。多くの鉄道史文献では、1893(M26)年筑豊興業鉄道が採用した6トン積み鉄製石炭車(英国ラムソン&レピーヤ製)を嚆矢としており、一方、鉱山史からは三池炭車を嚆矢とする記述が見られること(*1)は注目すべきだと思います。

以降、単位4トンは三池貨車の基準になりました。4トン炭車1両が馬車軌道の鉱車(0.44トン)の9車分(およそ2列車分)になり、輸送力を桁違いにアップさせました。また”船積”とあるように、底開きという炭車構造と、横須船積場の「高架桟橋」との組み合わせによって、船積みの時間短縮と省力化が達成されました。たとえば70トンを船積する場合、「170の小炭車と30馬匹を要し、1時間以上を費せしも、汽車用炭車は僅か18台、時間12分を以て積み移し得る(*文献1)と簡潔に比較されています。三池鉄道では、高架桟橋から自然落下によって炭車から直に船積する方法は横須船積場に見られ、三池港では船積機を介した機械荷役へと移りましたが、高架桟橋は三池港貯炭場の施設としてより大規模に用いられました。

4トン炭車は1890(M23)年中から製造が開始され、鉄道開通時には100両が用意されといいます。その後、1901(M34)年までに総数324両(総荷重1296トン)まで増備されました。時代的には万田坑開鉱や、三池港築港工事の開始などが区切りとなりました。4トン炭車は、およそ明治年間の主力炭車でしたが、大正半ば過ぎから両数を減らし、使用廃止は1933(S8)年となりました。


8トン積炭車の登場(1905(M38)~)

8トン炭車は、1905(M38)年5月まず25両が登場し(*文献2)、1930(S5)年までの長期間にわたり合計485両(総荷重3880トン)が新製増備されました。特徴として、4トン車の2車分に大型化されたこと、鉄製車ということが挙げられます。また製造にあたって鉄道車輌メーカーが参加しています。鉄製で耐久性があったことから長期にわたって用いられました。大正時代はおおむね、4トン・8トン車の時代といえ、4トン車と混用された編成も見られます。また戦後には炭箱嵩上げによって多くが10トン積車セ形に改造されました。セヤ形としては1960年代まで現役だったと思われます(*文献3)
8トン車は三池港に対応した大型炭車と位置づけることが出来ます。三池鉄道開通当初、1892(M25)年の出炭量は46万トンでしたが、勝立坑、宮原坑、万田坑の開坑によって、1907(M40)年には148万トンと3倍増となりました。この間、4トン炭車の約250両の増備や、本線の中央区間(宮浦坑~七浦坑)の複線化が図られていますが、官営時代以来の最大懸案(大牟田港から口之津港への中継航送)は、三池港築港による決着を待たなくてはなりませんでした。三池港の開港とともに、宮浦~三池港という本線の大部分が複線化され、あわせて重軌条化が図られました。
8トンが新単位になったことは、三池港の船渠岸壁に3台備えられた石炭船積機(ダンクロ・ローダー)のバケッツ容量が8トンということからもうかがえます。船渠岸壁に平行して設けられた四ツ山貯炭場から、15トン電車牽引の8トン車8両という編成で船積機に連続送炭されました。


16トン積炭車の登場(1934(S9)~)

16トン炭車は、8トン炭車をさらに2車分大型化し、三池形炭車の完成型となった形式です。1934(S9)~1938(S13)年の短期間の新製増備ながら、合計240両新造。総荷重3840トンは4トン車と同じ輸送力を確保しています。世代的には7トン車の代替えとなりますが、地上設備の改良(および旧坑の閉坑)により大型炭車の導入が可能になりました。
8トン車の2車分ということは、炭箱の構造にも現れていて、中央仕切りによって8トンづつの2室に分かれています(それぞれに底扉は2つ)。これは先述した、船積機の規格に沿ったものと思われます。形態的にも類似車輌がいない、車高を抑えた(その分、車長が長い)、独特なスタイルをしています。16トン炭車は平成時代まで生き残りました。


7トン炭車の購入(1913(T2)~)

7トン炭車は、「明治41(1908)年6月から初めて宮浦立坑で土砂充填が開始されるに至って、浜駅構内の殻捨から焚殻を炭車に積んで宮浦に輸送されるようになり、後の充填列車の魁となった。…その後、充填列車整備のこととなり、国有鉄道の中古車118両を大正2、3年にかけて購入、4年8月大浦採鉱所の土砂積に使用(文献1)とあり、このことを鉄道統計から補うと、大正2(1913)年版に底開き石炭車45両、大正3(1914)年版にも同型73両が三井鉱山譲渡と記され、記事と一致しています。
当時、鉄道院では石炭車の増トン改造(9トン、13トン化)の最中で、その一方で改造不適格となった石炭車(全鉄製車以外)を民間に放出しており、これらを三池にて譲受したものです。7トン車は鉄製台枠に木製炭箱を載せた木鉄混製車で、1934(S9)年まで使用されました。8トン車などと混成の編成を組んだ写真もあるので、石炭車として使用されることも多かったと思われます。


(*1)例えば『鉱山発達史』(1900(M33)年)など。
(*2)製造に関しては不詳点が多いが、三池鉱業所総年譜によれば1890(M23)年1月製造着手。
(*文献1)『三井鉱山五十年史稿本』より。
(*文献2) 『三池炭鉱専用鉄道概要』より。
(*文献3)『鉄道ファン21号』1963-3より。1962(S37)年撮影としてセヤ2047号が目撃されている。

2024年9月15日日曜日

三池の絵葉書から③ 万田駅

マイコレクションから万田坑の古絵葉書🐱
末藤書店発行の三井三池炭礦萬田坑 MITSUI’S MANDA COLLIERY AT MIIKEです。”COLLIERY”はCOAL MINEと同義で、炭鉱のこと。末藤書店(末藤書画店とも)の詳細は不明ですが、三池炭鉱明治期の絵葉書を多く残しています。ただし、題材の年代的に大正期のものがないので、明治末年までに廃業したのではと推測しています。
この絵葉書は万田坑を北側から見ており、手前には現存する第二立坑、奥に第一立坑という構図です。万田坑の絵葉書は第一立坑を主題にした南西側が圧倒的に多いので、この点から貴重な映像資料です。絵葉書を細かく見ると、第二立坑櫓には足場が架かっていることと、巻上機室の建屋がない(巻上機らしきものは写っています)ことから、まだ建造途上の様子に見えます。第二立坑は1898(M31)3月開鑿着手、1908(M41)年3月操業開始。




線路は三池本線。複線路にみえますが、宮原~万田間の複線化は1908(M41)年7月運輸開始です。また、選炭場を線路が通り抜けていないように見えますが、当初の配線では選炭場北側に遷車台(トラバーサー)を設けて、炭車を振り分ける方法が取られていました。以上のことから、この絵葉書は1907~1908年頃の撮影ではないかと推測されます。

2023年1月より、選炭場跡には12号電車+デ1号と18号電車が保存されています。ストリートビューにて絵葉書と同じ構図を再現。そもそも廃線跡にストリートビューとは😹


選炭場の在所は現荒尾市(当初は荒尾村)、北面傍に市境があり絵葉書の撮影位置は現大牟田市(当時は駛馬村)となります。ストリートビューは保存車両の置かれる前の2015年モノですが、景色的には今ももまったく変わっていません。保存車両は荒尾市所有なので、荒尾市内に敷かれた50mほどのレイルにて動態保存(12号電車)されています。絵葉書でいえば、選炭場の向こう側ということになります。

なお、NPO炭鉱電車保存会(大牟田市)では、市境をこえた大牟田市内に線路を延長し、動態保存のエリアを拡大して新たな景観を造ることを提言しています。三池本線の復活ですね。

2024年9月11日水曜日

三池鉄道メモ① 視察客車

単発的なネタをメモ、以降の課題資料とします。

三池鉄道の謎車輌について。
三池の客車といえば通勤輸送に用いられたコハ形・ホハ形はよく知られていますが、じつは明治期より1両の客車が在籍していました。『三池港務所沿革史』より「明治35年(*1902)に客車1両を製造せられ、社内見学視察者等の乗用に使用」とあります。竣工図表は添付されていないため、どのような客車であったのかは皆目不明で、どこで製造されたのかも分かりません。無論、写真も未発見です。1902(M35)年~1936(S11)年は1両が在籍、形式称号の改正があった1937(S12)年以降は”その他”の車輛に括られたようで、在籍については追跡できません。1902年製ということから”東洋一”の万田坑開坑(1902年11月操業開始-1903年3月開坑式)の見学者に対応したものと思われます。やんごとなき方々の乗車機会があるでしょうから、客室内もそれなりであったのだろうと想像するしかありません。

ところで、この客車(形式も車号も不明のままですが)、実際に使われた事例を探していたら、それらしい記事を見つけたので合わせて引用しておきます。
1926(T15)年10月21日~10月29日に石炭礦業連合会主催にて、会員による九州視察旅行が行われました。行程については清宮生「視察団に伍して」(*1)という記事にまとめられており、そこから気になる記述をいくつか拾い上げてみます。
                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                             
10月22日(二日目)枝光駅よりの貸切列車にて、17:16大牟田駅着(大牟田での宿泊地については記事無し)。

三池炭鉱視察は三日目になります。
10月23日(三日目)
今日は三池視察の日である。午前八時三池製作所に集合して製作所、製煉所、染料工業所と順次参観した

次の記述が気になる部分です。
午前十時、川端線より特別列車に便乗して萬田駅に着き、萬田坑外の設備を視る
文中にある”川端線”は聞きなれない名称ですが、宮浦駅より染料工業所側に分岐した引込線。ここで一行は”客車”に乗車したようです。宮原坑は車窓から眺めただけか。宮浦~万田間は1920(T9)年には電化されていますが、鉄道の記事は無し。

万田坑視察後、萬田駅より再び”客車”に乗車します。
再び、汽車にて大島駅に着、水洗場を視てから四ツ山坑に赴く
”大島駅”は、大島水洗場の操業に合わせ1926(T15)年5月に設置されたばかりでした。四ツ山駅の旧称です(正しくは大島駅と、初代二代目四ツ山駅は別駅)。四ツ山坑は大島駅からほど近い位置(二頭山の裏側)にあり、1923(T12)年に操業を始めた当時の最新鋭坑です。
”汽車”とあるので、蒸気機関車が客車を牽いた?

四ツ山坑からは自動車にて港倶楽部へ、午後の饗応のあと三池港の視察、午後二時半には三池港から乗船して、この夜は島原にて宿泊。
以下、視察旅行の行程に興味ある方は同記事に当たられたし。それにしても休養日(四日目)を除き、東は宇部(沖の山)から西は端島(高島)までひたすら陸路海路で巡っており、明治人のタフネスさには驚きます。

ちなみに視察団がどのような規模であったかというと(一日目の名簿より)
会長 麻生太吉
副会長 松本健次郎
同 貝島太市
以下38名

おそらく、付き人や秘書も随伴(別行動だろうが)していたとすると結構な規模の御一行です。名士のみでも40名を超えるとなると、三池の”客車”はボギー車なのか、それとも鉄道省から客車を借り入れたのか、気になる人数ではあります。

(*1)『石炭時報 第1巻第8号』石炭鉱業連合会1926-11

2024年9月2日月曜日

デ1号電源車⑩

万田坑デ1号の車端部の装備を見てみます。まずは前位側から🐱
ところでどっちが前?外枠に書かれた丸数字(位置呼称)によれば、①と②がある浜側が前位となり、機器箱側は③と④なので後位です。ちなみにデ形以外の貨車についても浜側を前位としていました(機関車は車種によって異なります)。以下、装備品3点を取り上げます。


①標識灯

標識灯、すなわち尾灯1つが①位寄りに設けられています。現役時代は点灯していたシーンを見た記憶がありませんが、うれしいことに展示運転では灯されていました。まわりが明るいので、気付かれにくいのが難点。標識灯自体は20トン電車と同型のものに見えます。運転席妻面には”電源車標識灯”のスイッチがあります。




②ステップ

車端の①位寄りと②位寄りにステップが取り付けられています。黄色く塗られていて、かなり目立つパーツです。網抜けのステップはそれぞれ形態が異なり、①位側は四角、②位側は五角形でかつ外向きにひねる角度が付けられています。②位側は運転席のある側となりますが、20トン電車自体は運転席側にしかステップはなく角度があることも同様で、機関車に仕様を合わせたかたちです。なお、①位外枠には何か切り落とした痕跡があるので、①位側ステップは後付けかも知れません。



②位側ステップは運転席から操車掛の挙動が見易く、手すりも黄色く塗られているので原則的にはこちら使用なのかなと思って写真を見返しましたが、そうでもなかったです。そもそもステップ添乗の写真は意外なほど撮っていませんでした。コンテナ車の入線以降は、デ形側に貨車を連結するという入換パターンがほとんどなかったことも関係しているのかも。参考までに両ステップ添乗の写真を挙げておきます(1枚目は変則)。



③排障器

今回この記事を書いていて、デ1号に変化があることに気付きました🐱本来、前位床下に排障器(先端はゴム?)がありました。編成先頭になることも多かったデ形ならではの装備でしたが、現在のデ1号は失くしています。過去写真を探すと、2022(R4)年9月の保守運転最終日にはまだ装備していましたので、2023(R5)年1月の万田坑陸送の際に外されたのではと推測します。排障器はいずこへ・・・


2024年8月25日日曜日

三池の絵葉書から② 宮浦駅


マイコレクションから宮浦坑の古絵葉書🐱
江崎文化堂(大牟田市有明町)発行の「最も新らしき大牟田名所絵葉書」組より、「三池名勝(VIEWS OF MIIKE) 宮の浦坑」です。ご覧のように、この名勝シリーズは鮮明な印刷でコレクションの愉しみとなります。撮影対象の登場時期から昭和10年前後の三池風景と推測しますが、三池の絵葉書は明治~大正期のものが大部分なので、昭和戦前期の映像資料として貴重です。

宮浦坑は官営三池末期の1888(M21)年3月に第一立坑が竣工。木造櫓のため、絵葉書では黒っぽく写っています。その後、第二立坑(排気坑)が1919(T8)年6月に着炭、大斜坑は1923(T12)年11月に貫通しました。第一と第二坑がそれぞれ1947年1951年に閉坑したあとも大斜坑が主力坑口として操業しましたが、採炭区域が海底炭層に移ったことにより1969(S44)年1月に三川坑に統合され、明治以来の歴史を閉じました。なお宮浦坑の閉坑により、馬渡・勝立地区からの鉱員輸送を担った勝立線(宮浦~東谷)が廃止されました。

宮浦坑の跡地は、一部が宮浦石炭記念公園となっています。絵葉書にも見える汽缶場煙突をシンボルに大斜坑坑口跡、第一坑基礎跡などの坑外施設、および坑内機械が展示されています。公園以外の跡地は工場敷地に転用されたたため、遺構らしきものは残っていません。大斜坑曳揚機室は1990年頃までは残っていたと記憶しますが、あまり記録できないまま無くなってしまいました。



宮浦坑の足元にみえる宮浦操車場の車両に注目してみましょう。
左側に見える蒸気機関車は、おそらくポーター製のサドルタンク機、8~16号の大所帯をかまえ、三池を代表する蒸気機関車です。一方、右側には20トン電車が貨物列車を牽いていますが、車体拡幅前の姿で、ボンネット先端のヘッドランプが見えています。港~宮浦間の電化は1920(T9)年10月、宮浦~浜間も1933(S8)年11月に完成していますが、染料工場等の入換用として蒸気機関車が久しく活躍しました。宮浦駅の無煙化(最後の蒸気機関車)は、じつに1963(S38)年の電源車デ形の登場まで俟たなくてはなりません。

20トン電車がひく貨物列車は、前2両は無蓋車(大型車はハロ形ぽい)、以降は石炭車が5両繋がっています。4両はセヤ形および新セヤ形(いずれも8トン積み)ですが、左から2両目だけは側柱が見えるので7トン積み車(イ形)のようです。7トン車は鉄製台枠に木製の炭箱を載せた石炭車(もとは払い下げ)ですが、1934(S9)年に全廃されていますので、絵葉書の撮影時期のヒントとなります。
蒸気機関車の後ろに並ぶのは無側車(平台車)といわれる貨車で、ヒナ・ヒヤ形といった各形式、右隅の選炭場付近にはセヤ形が密集しています。蒸機・電機と宮浦3坑が同時に写った映像というのは実はとても珍しいです。三池絵葉書のなかでは比較的安価に流通しているので、コレクションにお薦めの一葉。

2024年8月3日土曜日

電源車デ形について③


東芝社報「三井鉱山三池港務所電源車 新設計蓄電池を搭載」(*1)より、電源車デ形についての3回目になります。タイトルに”新設計蓄電池”とあるように、メインテーマはあくまで蓄電池としています。当然ながら専門的な内容となっていますので、わたしには・・・さっぱりな内容なので、興味ある方はお読みいただければと思います。

すでに現状(デ1号)の蓄電池と電池箱は取り上げました。
デ1号電源車⑨

下記写真は文献(*1)より引用、蓄電池(型式VGKM-300型)および電池箱の外観になります。蓄電池は12Vのモノブロック構造(電池箱1つに4ブロックで48V)、天面に立つ白い筒状のものは自動保液器(精製水を自動補給)と防爆形排気栓で、1ブロックに6個付いています。自動保液器は現状では無くなった機器だと思います。”300”は蓄電池容量(300Ah)で、これは現状の2/3ほどでした。


電池箱は現状のものと大差ありません。天蓋の止め具は無くなりましたが、新たに両脇に把手が付きました。電池箱を結ぶ連結栓は小型のものに交換されました。


鉛電池の寿命は一般的には15年前後(充放電のサイクル数や過充電・過放電等による劣化要因に左右される)とされるので、おそらく3回ほどは蓄電池交換がされたのではと推測されます。デ1号が保存車両に選定されたのも、蓄電池の経年数が短かったためと聞きました。


(*1)鵜沢正治・山司房太郎「三井鉱山三池港務所電源車 新設計蓄電池を搭載」『東芝レビュー1963(S38)年10月号』東京芝浦電気発行

2024年7月21日日曜日

デ1号電源車⑨

本題の前に。
炭鉱電車ステーションゼロの特設サイトが更新され、7月8月の公開日が発表されました。
公開日は今までと同様の第3土日曜ですが、夏休みスペシャルと称して入場料、乗車体験料がお得な設定となっています。チラシ(PDF12.5MB)は凝ったものでセンスよいですね。社内にデザイン好きな方がいるのでしょうか。


万田坑のデ1号観察を続けます。
ようやく~、デ1号の心臓部といえる蓄電池を見てみます。運転終了後の整備点検を見ることができました。


”蓄電池”をもっと間近で見たいという需要があるとは思えませんが、アップにした写真も挙げておきます(写真はデ3号のもの)。セルは5列5行で隙間なく並んでいます。真ん中ひとつはスペーサーなので全部で24セル。1セル2Vを直列で繋いで48V。10箱並べて480Vを確保しています。端子の間に見えるのはフロート液口栓で、精製水の液量チェック、兼注ぎ口となります。


電池箱の内側にラベルが貼ってありましたので、型式を覗き見ます。GSユアサ製の電気車用蓄電池”VGDS480-1形”とありました。同社HPで調べると、Vシリーズと呼ばれる電動車やフォークリフト向けの鉛蓄電池です。製品一覧に該当型式はないので、おそらくオーダー品だと思われます。型式にある”S”は何らかのオプション、”480”は蓄電池容量(5時間率容量480Ah)でしょう。


せっかくなのでオープン状態の蓄電池箱をみてみましょう。天蓋は平面ではなく、外側に向けてわずかに傾斜しています。天板裏に張られたは白いマットは遮熱材でしょうか。また通風孔が外側以外の三面にありますが、これは充電時に発生する水素ガスを逃がすためと思われます。




2024年7月7日日曜日

デ1号電源車⑧

デ1号電源車の制動(ブレーキ)について。
まずハコ1号から引き継いだ側ブレーキ装置から。種車ハコ形は側ブレーキのみで、片輪のみに、内側から片押しで掛かる仕様でした。制動力としては貧弱ですが、三池では標準仕様。
写真は”側ブレーキてこ止め装置”と呼ばれるもの。上がブレーキをかけていない状態(緩解)、下がブレーキをかけた状態(緊締)となります。テコの先端と、ラックハンドルが黄色く塗られているのはデ形のみの特徴。ハコ1号の製造年(1942(S17)年)からすると、元々はピンによってテコを固定する”ピン止め形”という方式(*1)のはずで、現在のラック形(ブレーキイージー13形)となったのは、デ形改造以降だと思われます。



デ形の製造時は側ブレーキのみでしたが、1965(S40)年6月竣工で空気ブレーキが取り付けられました。製造後1年ほどは各種試験的な運転となっていたので、その間に現場からブレーキの効きが悪いといった声が上がったのかも。デ1号の写真はうまく撮れていなかったので、1枚目は同型のデ4号から、2枚目は更新車のデ3号から。デ3号には床下機器がないので、配管を含めた機構がよく見えます。



ブレーキシリンダー(制動筒)のみとなっているので”直通空気ブレーキ”ですね。構造的には機関車のブレーキの一部となり、シリンダーを動かすエアーは機関車から直接供給されます。一般的な貨車は、”自動空気ブレーキ”として補助空気溜と三動弁が加わり、万が一の車輌分離の際に、その名の通り”自動”制動が掛かります。直通空気ブレーキは機関車と分離してもブレーキは作用しないリスクがありますが、構造がシンプルなのと、機関車からの反応がよいというメリットがあります。検査時以外は20トン電車と連結を解くことはないため、デ形ならではの特徴といえます。


デ形の台車は既に取り上げ済みですが、4輪すべてに両抱え式で制輪子が掛かります。三池貨車としては例外的な制動強化となっています。おそらく空気ブレーキ取り付けと同時改造と思われます。

デ1号電源車⑤
https://ushiyan-tantetsu.blogspot.com/2024/06/1.html

余談ですが、展示線にて逸走が起きた非常時の対策として、北(宮浦)側レイルにはカーキャッチャー(制動靴)がセットされていました。逸走時にはカーキャッチャーが車輪を受け止めて、レイルとの摩擦によって制動をかける機器になります。



(*1)ハト形無蓋車等に見られます。

2024年6月30日日曜日

デ1号電源車⑦

しつこくデ1号電源車を舐めまわしていますが、まだ続けます。今回は床下機器を見てみましょう。デ1号には矢印の位置に5個の箱型機器が下がっています。同型のデ4号も同じ機器配置ですが、更新されたデ3号には無いものになります。



文献(*1)によれば、床下機器は充電抵抗器となっています。このうち、4位車端側にある機器Aのみ形態が異なっています。巻かれたケーブルは機器箱から繋がっているようです。


左右床下に2個づつ、計4つある機器Bです。蝶番がありますがボルト締めしてあるので、通常は開かないと思われます。天面の円盤は、抵抗器の熱を逃がすベンチレターでしょうか。






(*1)鵜沢正治・山司房太郎「三井鉱山三池港務所電源車 新設計蓄電池を搭載」『東芝レビュー1963(S38)年10月号』東京芝浦電気発行

2024年6月21日金曜日

デ1号電源車⑥

デ1号電源車の機器箱、何が入っているか気になりませんか😹
隠れたものは見たくなる、その性(さが)には抗えぬという訳で、はい御開帳。


以下、フルオープンの写真は同型のデ4号から。ツナギ図(*1)をもとに、各機器を推測します。機器箱の蓋は2つに分かれているので、まずは20トン電車との連結栓のある4位側から。プラス、マイナスそれぞれに自動遮断器(ブレーカー)が付いています。ACBとあるのは気中遮断器のこと。電源車電路の最初の機器になります。型式年式までは見ていませんが、傘マークの東芝が書かれているのでかなり古いものでは(製造当初のものかも)。



3位側はこんな感じ。中央寄りの機器はバネが見えるので電磁接触器だと思います。ツナギ図では、Lは断流器、CCは充電接触器となっています。手前側の機器はRCRY、CCBと書かれていますが、これは何でしょう(;'∀')。一番手前のかげに隠れていますが、緑の筒状のものは抵抗器だと思います。


機器箱蓋の裏には小さなシールが貼ってありました。拡大すると、蓄電池の取り扱いについての注意事項が書かれています。




(*1)鵜沢正治・山司房太郎「三井鉱山三池港務所電源車 新設計蓄電池を搭載」『東芝レビュー1963(S38)年10月号』東京芝浦電気発行

2024年6月14日金曜日

デ1号電源車⑤

4月より毎月2日間(第2第4日曜)の定期運転も安定してきた万田坑の12号電車+デ1号電源車。なぜか天気に恵まれない日が連続しましたが、雨天かまわず決行されています😹

今回はデ1号の台車周りを見てみます。
デ1号は、ハコ1号15トン積み無蓋車の改造(1962(S37)年)です。ハコ1号は1942(S17)年若松車輌製。ハコ時代の姿は未発見なため詳細は不明ですが、同世代の国鉄無蓋車の規格に倣ったと思われ、当時としてはスタンダードな、一段リンク式台車となっています。



両抱え式のブレーキ、また4輪すべてに掛かる仕様なのは三池貨車としては珍しい事例で、おそらく20トン電車の制動力を高める意味があったと思われます。車輪は一体圧延となっていますが、古い写真を見るとスポーク車輪でしたので、いつの間にか交換されたようです。

2024年5月27日月曜日

電源車デ形について②

前記事はこちらになります。

東芝社報より「三井鉱山三池港務所電源車 新設計蓄電池を搭載」(*1)から、電源車デ形についての2回目、「電源車を利用した際のおもな利点」を読んでみます。


この記事は、電源車全般に加えて三池港務所の事情にも触れており、当時の蒸気機関車の使用状況のまたとない資料となっています。蒸気機関車は宮浦駅周辺の工場引込線の入換が主な仕業で、宮浦操車場(電化済み)と工場線(無架線)の間をつなぐ役目になります。
以下、長い引用になりますがメリットとして8項目(プラス1)があげられています。

「老朽化した蒸気機関車を全廃することができて運転費、保守費が軽減された」

蒸気機関車の運転コストをなくすことが電源車導入の第一義なので、このことが筆頭に書かれています。保守作業が無くなることも大きなメリットでした。万田駅の汽関庫からトコトコ回送してくるのも時代に合わなくなったようで。

「ボイラの灰落としによる無駄な時間がなくなり作業効率が向上した」

これは後で述べる⑥とも関係しますが、蒸気機関車特有の仕業前後の整備作業がなくなるメリットです。実働時間が延び、かつ人員の削減につながります。

「本線と引込線との接合部でその都度蒸気機関車と電気機関車のツナギ替えをおこなう必要がなくなり、また在来の電気機関車を有効に運転できるので就業効率が向上した」

蒸気機関車の主な用途は、工場内の入換(同じような状況の三池浜駅もか)でしたが、本線(宮浦操車場)から無架線の工場内まで機関車付け替えなしで電気機関車が入線できるようになりました。

「従来使用していた蒸気機関車はけん引力が小さく特定の場所では重連運転しなければならなかったが、電気機関車に代わったためにけん引力が大きくなり、重連運転の必要がなくなったので運搬効率が向上した」

SL重連が必要だったという特定の場所、気になりますね。宮浦駅の東側、化学工場側は一番奥のガス工場まで緩やかな上り勾配ですが、はたして重連を必要とするまでだったのか。わたしは宮浦駅の西側、小高くなった宮浦坑への引込線かなと思っています。いまは線路跡の痕跡が無いのでイメージし辛いのですが、配線図によれば現在の宮浦石炭記念公園あたりまで線路が引き込まれていました。

「架線区間で万一停電が起きても電源車の電池が電源となり運転を継続することができるので、作業に支障を来すことが無く便利である」

停電となることがしばしばあったのかな🙀

「必要な時にいつでも即座に使用することができて便利である」

一般的には蒸気機関車の運転準備(石炭を焚いて缶圧が上がるまで)に2時間を要するとされます。

「蒸気機関車とは異なり機関助手は不要で人員の削減ができる」

これは①とも関係していますが、人員コストの面でのメリットになります。

「煤煙が一掃されたので運転手、信号手や沿線の人々は汚れないため大喜びであり環境が著しく改善された」

無煙化の一般的なメリットです。宮浦駅周囲にはあまり民家はありませんが。
ちなみに鹿児島本線の無煙化は1974(S49)年でした。大牟田荒尾入換用の蒸気機関車(C11形)が残りました。

「この外電源車を使用すると隣り合っている架線区間の間に無架線区間が挟まっていて普通電気機関車のままでは隣りに移動できない場合でも電源車が連結されていると容易に移動できる」

これは③と同様な内容になります。機関車付け替えが無くなったメリットが繰り返して強調されています。



(*1)鵜沢正治・山司房太郎『東芝レビュー1963(S38)年10月号』東京芝浦電気発行