2025年3月31日月曜日

デ3号電源車⑤

デ3号電源車を観察する5回目🐱

デ形のうち、機器更新されたのはデ3号のみだったため、該機になんらかのトラブルがあったのではと推測しましたが、『電源車履歴簿』(*1)を確認したところ、これは事実でした(当時、現地でもそれらしい話は聞いていました)。2005(H17)3月、架線充電中にショートにより大きく焼損し、現地では修理不可と判断されて機器類はM島電機製作所に送られたことが記されています。機器更新後、現場復帰するのは2009(H21)年2月からと、おもわぬ長期離脱でした。

また、デ3号の離脱によって車両のやりくりが逼迫し、たまたま新品に載せ替えたばかりだったデ3号の蓄電池をデ1デ4号に回すなどの対応に追われたことが記録されています。下の写真に見られるように、全般検査17-1(→2017-1)からまもなくの事故だったことが分かります。復帰から2年以上経っても機器箱だけが色鮮やか。


デザイン的には20トン電車との一体感は無くなり、趣味としては好き嫌いが分かれそうですが、2009年以降は通常のローテーションに戻ったため、稼働中の姿はたびたび目撃できました。せっかくなので下回りの写真を追加しておきましょう。

1位から3位の床下に引かれていた”鉄管”ですが、これは床下に吊るされていた充電抵抗器の短絡線(の名残り)ではないかと推測しています。充電抵抗器は架線電圧を充電電圧に下げるための機器です。先述の『電源車履歴簿』によれば、三池港駅で充電する場合、宮浦駅に比べて架線電圧が低くて不具合があるため、その対策として幾つかの抵抗器を経由しないための短絡線(および短絡スイッチ)を後付けにて設置したことが記されています。




(*1)炭鉱電車保存会所有

2025年3月23日日曜日

デ3号電源車④

特徴あるデ3号電源車の4回目🐱デ1号4号には見られなかった装備を取り上げます。

デ3号の後位は20トン電車との連結面になるため、単独での姿は貴重だと思います。写真は宮浦庫の前でデ1号と留置中のシーン(11号と12号電車は修理中)。妻面左隅に警告ランプ(赤=故障、橙=蓄電池容量低下)がありました。位置的に運転室から見えるようになっていると思われます。




デ3号独自の装備としてはもうひとつ。機器箱の側面に小扉があり、地上から操作する機器が収まっています。写真はその操作中の一コマ。アップにすると何となくわかるのですが、ボタン(ないしランプ)が縦に赤緑黄の順で並んでいます。


この機器については、いまのところ用途は不明です。何らかのモード変更か、ONOFFを切り替えているように見えますが、デ1デ4号には見られない操作です。

デ3号電源車③

私事。先日(2025.3.9)に 万田坑の炭鉱電車を見て来ました🐱
この日はちょうど万田坑スプリングフェスタの開催日にあたり、出店やイベントなどで賑わっていました。おもえば、前年2024年3月10日のフェスタで12号18号電車のお披露目が行われ、4月14日から始まった12号電車の定期運転は間もなく1年を迎えます。”電気機関車の動態保存”というハードルを越えて、安定運転を続けてきた関係者の方には感謝の思いが尽きません。
今回のフェスタでは、電源車の中身(;゚Д゚)がクイズとなっていましたので、親子連れの見学者が次々と訪れていました。18号の運転室も行列が出来るほどの盛況。今後も”荒尾市のお宝”として炭鉱電車を使ったイベントが企画されることが期待できますね。荒尾市で”炭鉱電車でこんなことがしたい”という企画募集をしてみてはいかがでしょうか。

デ3号電源車の3回目。今回はデ3号の細部を観察してみます。


デ形は浜側(→貨車を連結する側)を前位とします。右側面はラストランイベントからで、当日は絶好の日和でした。電池箱は他号車と変わりありませんが、キュービックな機器箱と、すっきりとした床下が特徴です。また更新前と比べると、妻面1位側のステップは増設、逆に後位妻面のステップは撤去されたことが確認できます。

更新前のデ3号の姿(デ3号電源車②)




左側面は現役時代の写真から。こちらは側ブレーキのある側面です。よく見ると、てこ止め装置はラック式となっていますが、ピン穴がそのまま残っています。また、手すりの塗り分けがデ1号とは異なっています。


デ3号の特徴は機器箱に集約されます。機器箱は3分割されており、天盤は跳ね上げ、内扉は観音開きするようです。天盤は通風を兼ねているのか二重となっています。内扉は中扉に小、左扉に縦長の窓(ないし液晶?)があるのが気になりますが、いい写真を撮っていなかったので用途や詳細が不明なのは悔やまれます。また、機器箱に埋め込んだ銀色カバーが見えますが、これも何の機器だったのでしょう。
機器箱の後位妻面については、天蓋のヒンジと別付けの銀色カバーがかなり目立っています。これは別途で取り上げます。




デ3号の床下を覗きます。制動装置はデ形共通の直通空気ブレーキとなっており、装備としてはシリンダのみです。デ形のブレーキ装置については、すでにデ1号電源車⑧で取り上げました。
https://ushiyan-tantetsu.blogspot.com/2024/07/1.html




2025年3月2日日曜日

三池の絵葉書から⑥ 絵地図

マイコレクションから、今回は地図の絵葉書🐱絵地図ものもコレクターには人気あるアイテムです。三池炭鉱の場合、わたしの知るかぎりでは今回の大牟田全図のほかに、もうひとつ三池港全図もあり、いずれも豊富に流通しています。ただし、色塗りものだとコレクション的には珍しいように思います。
絵葉書には”停車場山田発行”とあり、大牟田荒尾の絵葉書を多数発行した山田商店から出ています。キャプションは「PUBLISHED BY YAMADA'S ŌMUTA STATION THE MAP OF MITSUI'S MIIKECOAL MINE AND MIIKE HARBOUR」とすべて英語。地図中も主だった施設にはカタカナに英語が振られています。絵葉書は、三池港に寄港した外国人船員たちの手軽な日本土産として販売されていたと思われ、今でも海外の古書サイトなどでしばしば見つかります。
地図をみると、三池港は開港していますが、坑口は大浦-宮浦-七浦-勝立-宮原-万田まで四ツ山がまだありません。タイトルは”大牟田町附近”ですが、大牟田は1917(T6)年に市制施行していますので、地図の情報としては1909(M42)~大正初め頃となると考えられます。


なかなか楽しい地図なので、いくつかズームアップしてみましょう。
大浦(ヲヲウラŌURA)坑と七浦(ナナウラNANAURA)坑の間には、”ROOPWAY”と書かれた点線が結ばれています。これは大浦坑の出炭を七浦坑の選炭場まで輸送するための坑外軌道線(軌間18インチ≒457ミリ)で、1899(M32)年に開通しました。エンドレスロープによる循環運転でしたが、1917(T6)年に電気機関車牽引に改変されています。絵葉書では”ROOP”とあるので、エンドレス軌道時代と分かります。


三池港は隙間なく描きこまれていて拘りを感じます。特徴である閘門(コヲモンWATER GATE)や船積機(フネツミキLODING MACHINES)も見えます。開港当初の港湾事務は船渠南側に集中していました。つぶさに見ると港務部(コヲムブHARBOR DEPARTMAENT←綴りは誤り)となっていますが、実際には1909(M42)年に港務所に改称されています。クラブ(CLUB)とあるのは三池港倶楽部ですが、高級船員向けの接待所でした。


今となっては残っていない地名も多く見つかります。大牟田川河口の”スノハナ”や”ヨコズ”はもはや通じないのでは。絵葉書中央の”片平山”も地図上には記されることが無くなりましたが、今の延命公園の一帯です。山頂には大牟田を見渡すことができる展望所があります(戦時中は高射砲陣地があったという)。