2025年2月27日木曜日

デ3号電源車②

更新前のデ3号は三井石炭鉱業専用鉄道時代に撮っていました。機器箱や床下はデ1号4号と違いはありませんが、矢印の箇所に鉄管が引き通されているのがデ3号のみに見られる特徴です。見た目は電線管のように見えますが、さて何でしょう。更新後は2位側の鉄管は撤去されています。



中央の蓄電池箱にある三井マーク、アクセントとして好ましく感じられます。この社章は三井化学専用鉄道となってからも使われていましたが、2004年に新社章が制定され、しばらくするとデ形の表記は消されてしまいました。これは他号車も同様でした。

デ1号電源車④


上の写真は、三池港駅の施設課車両工場にて整備中のデ3号です。開放された蓄電池箱からは濛々と湯気?が立っていました。前位妻面のステップは片側のみ、1位側に足掛けがありますが、おそらくデ形原型はこのようになっていたと思われます。更新後、妻面のステップが増設されました。
デ3号の観察は続けます。

2025年2月24日月曜日

デ3号電源車①

電源車デ形はデ1~4号が製造されましたが、鉄道廃止時にはデ2号を除く3両が残っていました。このうち、デ3号のみ機器の更新が行われ、外観的には機器箱の形態が変化し、床下機器が無くなるなどの特徴が見られます。以下、デ3号の最終的な姿をあげてみました。



機器類は明らかに新しくなったため、てっきり保存対象になるのではと予想していましたが、一番車齢の古いデ1号が保存されたのは意外でした。写真は保守運転の最終日、車庫内入換のために出てきたシーンです。おそらくデ3号+11号電車の最後のバッテリー走行だと思います。


2023(R5)年8月に僚機デ4号とともに現地解体されたため、今となっては更新の具体的内容が不明なのは残念至極です。結局、更新工事は1両のみにとどまったため、経年による機器交換ではなく、損傷レベルの大きなトラブルがデ3号に起こったのではないかとも考えられますが、まったくの推測に過ぎません。旧態と比べると外部表示灯やスイッチ類が加わったことが確認できるので、電気構造的にも変更されていたものと思われます。
ところで更新工事はいつ頃施行されたのでしょうか。わたしの撮影写真では特定できませんでしたので、こころみに宮浦ウオッチャーだったUTXCさんのブログ(『眠れないマクラギを数えて』)の過去記事を遡ると、2009(H21)年7月ではすでに更新されたデ3号が撮影されていました。もっと広く検索すれば、ある程度は絞り込めるかもしれませんが、手間はかかりそう。とりあへずは三井化学専用鉄道以降(1997年~)の可能性が高いように思われます。
デ3号の記事は続けます。

2025年2月18日火曜日

電源車デ形について④

東芝社報「三井鉱山三池港務所電源車 新設計蓄電池を搭載」(*1)より、4回目。文中より気になる記事を摘み喰いします。写真は非電化区間の浅牟田町108号踏切をゆくデ4号+12号電車+コキ200(銀タンコ)。


電源車デ形での20トン電車の運転は、巷説では”化学薬品を扱う工場構内にて着火源となる架線からのスパーク(火花)を無くすため”として言及され、一番のアピールポイントなっています。引火性のある化学薬品を扱う工場構内(専門的には”爆発性雰囲気”という)において、”防爆”がレゾンデートルとなっているのですが、じつは文献(*1)には該当する記述がありません。

蒸気機関車の代替機の選択肢から、電源車導入に至った経緯については必ずしも明確ではありませんが、三池鉄道の既存環境が大きく後押ししたように思われます。すなわち、すでに入換用に適した小型電気機関車が複数台、かつ同型で在籍していたため、電源車という付随車新製が”コスト的”にもっとも優れていたということになります。電気機関車側は小改造で済むことも大きなメリットとなります。もし20トン電車がいなければ、おそらく内燃機関車か、必要ならば蓄電池機関車が登場していたのではないでしょうか。

このあたりの経緯については、電源車デ形について①でも触れました。

ところで、記事中に「防爆」の文言がまったくないという訳ではなく、一ヶ所その記述がみられますので引用しておきましょう。蓄電池の付属品として「防爆形排気せん。客先仕様では防爆の必要はないが充電中に水を分解して酸素と水素を発生するので、電池の付近で裸火を使用したりスパークを飛ばしたりすると爆発の危険性がある。よって潜水艦などに使用して実績のあるセラミック防爆形排気栓を使用し、爆発によって電池を壊したり、人命に危害を加えたりしないように安全性を重視した設計にした」とあります。鉛蓄電池は原理的に水素と酸素の発生が不可避なため、そのガスが溜まった電池槽内に火花が入らないような工夫が必要となり、一方、ガスそのものは安全に外気に拡散されます。蓄電池自体にこのような水素爆発の危険性があることはあまり言及されていませんでした。そういえば、三池港本庫の前にあった電源室(おそらく精製水等が保管)に、”火気厳禁”の看板が掛かっていたのは、このような理由があったように思われます。

(*1)鵜沢正治・山司房太郎「三井鉱山三池港務所電源車 新設計蓄電池を搭載」『東芝レビュー』1963(S38)年10月 東京芝浦電気発行

2025年2月10日月曜日

三池の絵葉書から⑤ 宮浦駅

マイコレクションから宮浦駅の絵葉書🐱
宮浦駅に1990年代まで姿を留めていた石炭ホッパーについては既に2回にまとめましたので、絵葉書から初代ホッパーを取り上げてみます。正しくは”選炭場”と呼ばれる炭鉱施設になり、宮浦駅石炭ホッパー②で取り上げた鉄筋コンクリート建屋の先代にあたります。


絵葉書は「三井三池宮の浦炭坑 Miyanoura Pit,Miike coal Mine」と題した一葉。YSと署名がありますが、これは山田商店の発行を示す略号で、山田商店(山田屋とも)は築町に本店、不知火町(大牟田駅前)に支店、それに大牟田駅待合室に売店があったようです。三池炭鉱との関係は不明ですが、もっとも多くの大牟田絵葉書を発行販売したと思われます。


撮影年代を特定できるものが少ないですが、1888(M21)年より操業を開始した第一立坑しか見えないこと(第二立坑は1919(T8)年開坑)、見える範囲の炭車は4トン車が主力となっていることから、明治後半から大正前半までの間と思われます。
選炭場の5線ある積込線には4トン炭車と8トン炭車が入線していますが、左側2線の入口はやや高くなっているものの、それ以外は炭車ギリギリの高さしかありません。4トン炭車の全高は1962ミリでしたので、おそらく一番低いものは2300ミリも無いのでは。ちなみに8トン炭車の全高は2248ミリです。宮浦坑は鉄道開業時以来の操業坑だったため、当初の4トン炭車の規格に合わせたと考えられますが、他の坑口(七浦・勝立・宮原)も同様でした。積込設備上の制約のため、大型炭車の導入が見送られていた経緯がありましたが、他坑口はそのまま閉坑していくなか、宮浦坑については大型炭車に対応した鉄筋コンクリート造りの選炭場を新築しています。

ところで、この絵葉書はコレクション的には珍しいものではないのですが、面白い”現象”を発見しましたので紹介します。下の絵葉書は「三井三池宮の浦炭坑 Miyanoura Coal Mine Miike」、津村写停車場山田発行(”写”は旧字、”津村”は撮影者か?)です。見ての通り、まったく同じ絵葉書なのですが、汽缶場の煙突が2本に!
じつは最初の絵葉書をよく見ると、横切る電線が途切れており、意図的に煙突1本を消去していました。おそらく下の絵葉書が写真原版のままなのでしょう。わざわざ煙突を消した理由は謎です。

2025年2月7日金曜日

宮浦駅石炭ホッパー②

 この記事は『HP炭鉄』からのサルベージ&リペアになります。

前記事 宮浦駅石炭ホッパー①
宮浦駅の石炭ホッパーをもうひとつ。趣味的にはホッパーと呼んでしまいますが、正しくは”選炭場”です。”せんたんじょう”ではなく、”せんたんば”。選炭とは、坑口から揚げられた原炭より岩石等(廃石、硬、三池では悪石と呼んだ)を取り除き、塊炭を篩分けしてその大きさから分級する作業工程です。
鉄筋コンクリート建ての大型施設でしたが、意外なほど記録された方は少ないような気がします。線路から離れてようやく全体が見渡せるほどで、大きさについての資料がありませんが、推定では線長方向は25メートル、奥行きは5線分なので16メートルほどではないかと思います。窓のある上層部分が選炭場にあたり、その下にホッパーと積込線という多層構造となっています。


下図は「15000屯出炭に対応する鉄道輸送とその施設」(*1)より「宮浦坑との接続関係略図」を引用したもの。原炭は塊炭、悪石、新粉炭、中塊、粉炭に篩分けられ、それぞれの積込線が引き込まれています。


三池炭鉱の選炭場の特徴とまで言えるかどうかは分かりませんが、坑口(三川坑をのぞく)にて選別された石炭は、そのまま直に炭車に積込む方式が取られて、ホッパーの貯炭容量はごく小規模になっています。『三池鉱業所沿革史』(*2)に「選炭機に於いて篩別された塊炭、小塊炭、粉炭等は夫々選炭機室下に敷設した各炭種別の運炭線によって直接大炭車に積込む装置となっており、僅かに「ホッパー」装置を有するのみで、従来各坑共貯炭炭槽の設備は有しない」とあります。文中の”大炭車”が鉄道線の炭車です。このような設備となった理由は記されていませんが、三池港や三池浜の貯炭場との距離が近く、鉄道線によって頻繁輸送が可能なため坑口側で貯炭する必要がなかったためと推測しています。

ホッパーに炭車がいない時もあるのではと心配になりますが、続けて解説されています。「万一大炭車切れした時等は坑口と選炭機間に実函の立函線を設けているので、長時間貨車切れをなす外は殆ど坑内の配函及び出炭には支障を生じない。又運輸課の手配宜敷を得て従来長時間に亘る大炭車の不足を生じたと云うことも殆どなかった」とあります。”函”とあるのが坑内から原炭を揚げてくる鉱車。ただし、宮浦坑独特の設備となりますが、大斜坑が1936(S11)年にベルトコンベア化されて連続的に揚炭されるようになったため、選炭場との間に一時的な原炭貯炭槽を設けています。上図で”原炭ホッパー”とあるのがそれです。
さらに、選炭場からコークス工場への原料炭(粉炭)送炭のためのベルトコンベアが分岐しているは宮浦坑の特徴です。このベルトコンベアは1969(S44)年の宮浦坑閉坑後も引き続き活用されることになりますが、これは別機会にまとめましょう。

下の写真は1年後。ホッパーの宮浦坑面から解体が始まり、3線分を残すのみ。宮浦坑跡地はこの後、煙突回りの一角が宮浦石炭記念公園(1996年11月開園)に、跡地の大部分は大牟田中央工業団地として企業誘致がされます。


完全解体後に宮浦石炭記念公園から見下ろしてみました。コンクリート屑や並べられたレイルが生々しいですが、これらも程なくして撤去されています。


(*1)『三池時報』三井鉱山三池鉱業所1962
(*2)機械編第13巻 三井鉱山1939