2025年8月18日月曜日

三池島

 今回は趣向を変えて、有明海に浮かぶ人工島「三池島」🐱2010(H22)年11月恒例の産業遺産一斉公開にて、三池港桟橋からの三池島クルージングに乗船しました。写真はいずれも船上からのスナップです。

三池島は大牟田市の沖合5.5キロほどの有明海上に位置します。以下、文献(*1)より位置図を引用します。三池炭鉱は有明海海底を北西方向に坑道を延ばしていましたが、その途上に位置していたことが分かります。なお、この図は有明鉱区の開発前です。

「第3人工島位置図」文献(*1)より引用

1969(S44)年7月、三池炭鉱の第3人工島として築島工事が開始され、1970(S45)年9月に完工。すぐさま同年より立坑の開鑿に着手し、1973(S48)年5月に深さ520mにて完工しています。三池島立坑は海底坑道の換気を目的とした立坑のひとつで、さきに1951(S26)年に完成していた初島立坑(第1人工島)を排気、三池島立坑を入気坑としました。立坑は-380mにて宮浦坑、-450mにて三川坑、-520mにて四山坑の坑道に接続し、坑内環境の改善が計られました。


クルーズ船が三池島に近づきました。14時頃の乗船なので、三池島に日が当たっているのが西側だと思います。この日はベタ凪だったので、海上という感覚が無くなりそうでしたが、このあたりで水深は10Mあるそうです。三池島は直径92Mの真円形をしており、周囲はコンクリートと鋼矢板で囲まれています。地上に構造物は残っておらず、坑口も塞がれてコインのような平たい島ですが、空気抜きの鉄管が立坑の位置を示しているとのことでした。


船上からは地上の様子はよく見えませんでしたが、三池島に上陸したリポートがありましたので、参考までにリンクを張っておきます。

『大牟田の近代化遺産』より「人工島三池島」

今では、絶滅危惧二類に指定されているベニアジサシ(紅鯵刺)の繁殖が確認されるなど、野鳥の楽園となっています。炭鉱閉山後、三井鉱山からは無償譲渡の申し出があったとされますが、大牟田市は受諾していません。

(文献*1) 美川章「三井三池鉱業所第3人工島(三池島)の築島工事の実績報告と当島からの通気専用立坑掘さく工事の計画概要について」『日本鉱業会誌』1971-11

2025年8月11日月曜日

デ1号電源車⑫

万田坑に動態保存されている12号電車+デ1号の観察12回目🐱
12号およびデ1号共、前後位にブレーキホースを装備しています。デ1号の制動装置については既に触れましたが、もともとは車側ブレーキのみ、1965(S40)年に直通ブレーキに追加改造されています(他の電源車も共通)。

デ1号電源車⑧

デ1号の直通ブレーキのために、12号との間に直通管(SAP/Straight Air Pipe)が繋がれます。ただ、実際の展示運転では12号のみの制動力でも十分ということで、接続は外されていました(なお、雨天時等ではデ1号の直通ブレーキを使用することもあるとのこと)。


ここから本題。デ1号12号とも、下の写真のように、お互いの連結面以外にもブレーキホースを装備しています。構造的にはこれも直通管となりますが、デ形以外に直通ブレーキを装備した貨車はいませんので、用途としては限定的なものになります。おそらくですが、電源車の両頭仕様(20トン電車の前後どちらでもデ形の使用が可)の名残ではないかと推測しています。

電源車デ形について⑤

見た目は、自動空気ブレーキの制動管(BP/Brake Pipe)と似ていますが、機能的には異なりますので、国鉄貨車などの牽引で貫通ブレーキとして使用できるわけではないようです。



三池の車両のうち、貨車については基本的に空気ブレーキを装備しないため、貫通ブレーキの必要性がありません(例外として、タンク車の一部に空気ブレーキ装備車があった)。一方、客車は空気ブレーキを装備していたため、20トン電車の制動装置はその用途によって3パターンに分類されました。ブレーキホースは客車対応車と電源車対応車が装備しました。

2025年8月1日金曜日

三池の絵葉書から⑩大浦坑

 ひさしぶりな更新🐱
今年も酷暑な夏となり、老体にはつらい。そういえば2021年7月のラストランイベントのときも暑さに参ったことを思い出しました。

マイコレクションから三池の絵葉書を1葉🐱
「三池炭礦大浦坑  Ōura Colliery of Miike Cool Mine」です。CoalがCoolと誤字っているのはご愛敬。大浦坑絵葉書はめったに出物がなく、コレクター冥利に尽きる一葉といえます。発行者はオモテ面に「末藤書画店発行」と記されています。同店の絵葉書は、初期の三池炭鉱を捉えた貴重な写真が多いですが、大正以降の絵葉書はいまだ見つからないことから、早い時期に廃業したと推測されます。


大浦坑は官営三池時代の1878(M11)年に第一斜坑が開坑しました。坑口は旧来の大浦坑(→大浦旧坑)と並行するかたちになり、大浦新坑と称して揚炭および入気用とし、旧坑を人員および排気用としました。”旧来”と書きましたが、官営三池の発足当初は、旧三池藩や旧柳川藩が経営していた20箇所あまりの坑口を引き継ぎました。それらは狸掘りと称された人力に頼った古い坑口でしたが、英国人土木技師ポッターの指導の下、いったんは廃坑となっていた大浦坑を再開発坑として集中的な設備投資が行われました。

大浦新坑の坑道には複線の軌道が敷かれ、鉱車牽き上げのための蒸気動力の巻上機が稼働を始めました。また、坑口から大牟田川河口の横須船積場までの馬車軌道が敷設され、これはのちの三池鉄道の祖となる鉄路となります。大浦坑は三池炭鉱の最初の近代炭鉱と位置づけられます。


絵葉書は第一坑を向いており、正面の巻上機室の奥に第一斜坑、その左に旧坑の坑口がありました。右隅に見えているのは第二斜坑の坑口です。第二斜坑(揚炭および入気)は1906(M39)年の開坑なので、撮影時期はこれ以降と分かります。1899(M32)年に七浦選炭場との間に坑外軌道(エンドレスロープ)が敷設され、大浦坑の石炭が輸送されるようになり、七浦駅にて鉄道線に接続することとなります。これに伴い、先述の馬車軌道が廃止されています。


ストリートビューから現在の大浦坑跡の様子です。道路はここで行止まりとなり、正面にダムのようにも見えるコンクリートの擁壁は、大牟田市の廃棄物処分場を区切る堰堤です。右手の奥にコンクリートで塞がれた第一斜坑の坑口跡があるはずなのですが、金網越しの苦しい角度のためはっきりとは見えませんでした。近くに産業遺産としての案内があるわけではありません。

大浦坑は1926(T15)年に閉坑となり、施設は撤去されましたが、1946(S21)~1956(S31)年の間、ふたたび採掘が行われています。大浦坑の坑口写真としては『わが三池炭鉱 写真記録帖』(*1)に、2度目の閉坑後となりますが1969(S44)年に撮影された写真が掲載されています。おそらくですが、この後、本当の坑口跡は処分場の堰堤によって谷ごと埋め立てられてしまったのではないかと思われます。

*1)高木尚雄著 葦書房1997