2025年8月1日金曜日

三池の絵葉書から⑩大浦坑

 ひさしぶりな更新🐱
今年も酷暑な夏となり、老体にはつらい。そういえば2021年7月のラストランイベントのときも暑さに参ったことを思い出しました。

マイコレクションから三池の絵葉書を1葉🐱
「三池炭礦大浦坑  Ōura Colliery of Miike Cool Mine」です。CoalがCoolと誤字っているのはご愛敬。大浦坑絵葉書はめったに出物がなく、コレクター冥利に尽きる一葉といえます。発行者はオモテ面に「末藤書画店発行」と記されています。同店の絵葉書は、初期の三池炭鉱を捉えた貴重な写真が多いですが、大正以降の絵葉書はいまだ見つからないことから、早い時期に廃業したと推測されます。


大浦坑は官営三池時代の1878(M11)年に第一斜坑が開坑しました。坑口は旧来の大浦坑(→大浦旧坑)と並行するかたちになり、大浦新坑と称して揚炭および入気用とし、旧坑を人員および排気用としました。”旧来”と書きましたが、官営三池の発足当初は、旧三池藩や旧柳川藩が経営していた20箇所あまりの坑口を引き継ぎました。それらは狸掘りと称された人力に頼った古い坑口でしたが、英国人土木技師ポッターの指導の下、いったんは廃坑となっていた大浦坑を再開発坑として集中的な設備投資が行われました。

大浦新坑の坑道には複線の軌道が敷かれ、鉱車牽き上げのための蒸気動力の巻上機が稼働を始めました。また、坑口から大牟田川河口の横須船積場までの馬車軌道が敷設され、これはのちの三池鉄道の祖となる鉄路となります。大浦坑は三池炭鉱の最初の近代炭鉱と位置づけられます。


絵葉書は第一坑を向いており、正面の巻上機室の奥に第一斜坑、その左に旧坑の坑口がありました。右隅に見えているのは第二斜坑の坑口です。第二斜坑(揚炭および入気)は1906(M39)年の開坑なので、撮影時期はこれ以降と分かります。1899(M32)年に七浦選炭場との間に坑外軌道(エンドレスロープ)が敷設され、大浦坑の石炭が輸送されるようになり、七浦駅にて鉄道線に接続することとなります。これに伴い、先述の馬車軌道が廃止されています。


ストリートビューから現在の大浦坑跡の様子です。道路はここで行止まりとなり、正面にダムのようにも見えるコンクリートの擁壁は、大牟田市の廃棄物処分場を区切る堰堤です。右手の奥にコンクリートで塞がれた第一斜坑の坑口跡があるはずなのですが、金網越しの苦しい角度のためはっきりとは見えませんでした。近くに産業遺産としての案内があるわけではありません。

大浦坑は1926(T15)年に閉坑となり、施設は撤去されましたが、1946(S21)~1956(S31)年の間、ふたたび採掘が行われています。大浦坑の坑口写真としては『わが三池炭鉱 写真記録帖』(*1)に、2度目の閉坑後となりますが1969(S44)年に撮影された写真が掲載されています。おそらくですが、この後、本当の坑口跡は処分場の堰堤によって谷ごと埋め立てられてしまったのではないかと思われます。

*1)高木尚雄著 葦書房1997

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