2025年1月22日水曜日

宮浦駅石炭ホッパー①

この記事は『HP炭鉄』からのサルベージ&リペアになります。

宮浦駅に石炭ホッパーが姿を留めていた頃の写真をまとめます🐱

1969(S44)年宮浦坑は三川坑との統合により閉坑となりましたが、宮浦石炭記念公園(大斜坑跡)の解説板によれば、1990(H2)年までは大斜坑(1923(T12)年開坑)にて人員や資材搬入が行なわれました。写真は1990年3月に撮った宮浦駅舎正面の光景です。崩れかかった坑外建屋が確認できますが、残念ながら宮浦坑側からは記録していなかったので、何の設備なのかは分かりません。


宮浦駅には2基の石炭ホッパーが残っていました。それぞれタイプが異なり、三池浜寄りには鉄骨組みの1線式ホッパー、万田寄りには鉄筋コンクリート製の5線式ホッパーが建っていました。まずは1線式ホッパーから見てみます。


足元の9号電車と比べると、ひょろっと背の高く好ましい形態です。線長は炭車2両分ぐらいのサイズでしょうか。ただし、わたしが見たときにはすでにホッパーへの給炭設備を失い、孤立したような状態でした。

まずホッパーのスペックですが、「15000屯出炭に対応する鉄道輸送とその施設」(*1)によれば「特粉」と称する粉炭が扱われ、1ピット(貯炭槽)容量50トン×3槽のホッパーとなっています。さらに『模景を歩く』(*2)にて、もっと近接して模型的な視点から紹介されており大いに参考になります。同著より三池鉱業所提出の概略図によれば、側面は12100ミリ(脚間はそれぞれ4050/4000/4050ミリ)、線路面径間3140ミリ、上部覆屋を含めた高さ14950ミリとなっています。積込口下端は地上3600ミリあり、セナ形炭車(=セラ1形/全高3070ミリ)への積込も可能。積込口は手動(錘式)で宮浦坑面に架台、両端に階段がありました。

ホッパーの三池浜側にある鉄骨で組まれた足場のようなものはベルトコンベア施設跡です。ベルトコンベアは宮浦坑(および打込ピットから)からコークス原料となる石炭(原料炭という)を送炭するための施設で、宮浦坑から操車場と宮浦駅舎の上空を越えて、三井コークスの精炭槽の間に架かっていました。ホッパーには、この本線ベルトから分岐したベルトコンベアが架かり、浜側側面には取付跡が残っていました。

続く。

(*1)『三池時報』三井鉱山三池鉱業所1962
(*2)ネコ・パブリッシング2003(改訂新版2018)

2025年1月12日日曜日

三池鉄道の炭車略史②

直近情報になりますが、ステーションゼロの2025年1月の公開日は1月25日と26日となりました。26日(日)は万田坑と同時運転日となります。以降、公開予定については公式インスタをチェックされたし。

本題。
三池鉄道線内にて使われた社形炭車についてまとめます。

前記事はこちらより🐱


炭車略史①にて炭車4形式(4~7~8~16トン)を通観しましたが、時代的には戦前編となりましたので、略史②は戦後編となります。戦中期については資料が乏しいですが、炭車については新形式が導入された形跡が見つかりませんでした。以下、時代背景的な推論になりますが、戦局悪化につれて三池港からの海上輸送が次第に困難となり、もっぱら大牟田荒尾経由の鉄道輸送にシフトしたためではないかと考えています。

戦後間もなくして炭車増備が再開されましたが、新製車ではなく、国鉄からの譲受車で賄われるようになったのが戦前期との大きな違いとなります。ただし、三池入線後に社内にて更新や修繕がその都度行われたため外観にヴァリエーションが生まれたほか、制動機に改造が加えられています。


10トン積炭車の登場(1947(S22)~)

10トン炭車は、国鉄(正しくは運輸省鉄道総局)セ50形10トン積石炭車を譲受してセ形としたグループです。国鉄では、1947(S22)年の「第一次貨車特別廃車」によって大量の老朽貨車や不良貨車を廃車としましたが、その一部は民間企業に払い下げられています。三池においてもセ50形のほか、無蓋車を大量に譲受しています。

セ形はセ1001号~から附番されました。セ形の詳細は不明点が多いのですが、番号体系からすると合計260両を越える両数となっています。竣工図表より、その履歴は3パターンが確認できます。
①国鉄セ50形→三池セヤ形として入線→セ形に改称改番
②国鉄セ50形→三池セ形
③三池セヤ形→増トン改造しセ形に編入

セ形は三池入線時ですでに老朽車だったこともあり廃車ペースは速く、昭和40年代までには大部分は廃車になっています。ただ1両、石炭車としての用途ではありませんでしたが、セ1026号が九電港発電所構内の作業用として残っていました(文献*1)

(文献*1)『RAILFAN778号』「三井三池専用鉄道の車両6」に写真あり。

セヤ形炭車・セロ形炭車の連結器交換(1952(S27)

三池貨車は、開業当初より連環式連結器を採用してきましたが、戦後国鉄より大量の自動連結器車両が入線したことにより、ようやくながら社形車両の自動連結器交換がおこなわれました。その施行は1952(S27)年に竣工しています。このうち、セヤ形は改造車よりセヤ2001号~に改番されました。

15トン積炭車の登場(1958(S33)~)

15トン炭車は、国鉄セム1形15トン積石炭車を譲受してセコ形としたグループです。1958(S33)年より譲受を開始してセコ1号~より附番、1969(S44)年までの長期にわたり増備して合計325両となっています。導入途中、一部は屋根カバーを設けて燐鉱石ホッパー車(ホロ形)に改造されたのち、セコ形に復帰した車両があります。

戦後、次々と譲受車が入線したことにより、昭和40年代初頭の炭車はかなりのヴァリエーションとなっていました。参考までに1967(S42)年5月の在籍炭車は以下のようになっていました。この時点では両数的にはセコ形がおよそ半数を占めていましたが、車令的には戦前のセロ形のほうが若いため、この後の廃車ペースはセコ形が先になります。一方、セ形とセヤ形は終焉期ですね。

セロ形16トン積炭車 162両
セ形10トン積炭車  100両
セヤ形8トン積炭車  48両
セコ形15トン積炭車 286両 

17トン積炭車の登場(1975(S50)年~)

17トン炭車は、国鉄セラ1形17トン積石炭車を譲受、セナ形としたグループです。1975(S50)年より譲受を始め、セナ001号~を附番しました。国鉄の九州石炭輸送の終焉期にあたり、まとまった両数での譲受がおこなわれ、合計358両が増備されています。このうち、セナ291号~308号は元三井鉱山所有の私有貨車ホラ1形セメント17トン積ホッパー車となっており、炭箱形態が異なっていました。
セナ形は三池鉄道が最後に増備した炭車となり、1997(H9)年3月の閉山まで稼働しています。最終期はセナ形のみで編成が組まれ、火力発電所への燃料炭輸送が行われました。

2025年1月5日日曜日

単機の9号電車

 投稿間隔がずいぶん空いてしまった...ので、まずは近況を整理。

2024年11月3日(文化の日)は、ふたたび万田坑の12号電車、ステーションゼロの19号電車の同日運転となりました。それぞれ万田坑が「オータムフェスタ」、ステーションゼロが「炭鉱電車フェスタ」として入場無料のイベントを開催しています。SNS等でのリポートをみると、とくに初開催となった炭鉱電車フェスタでは、アイドルのライブコンサートとのコラボという新たなジャンルを開拓したことが特筆されます🐱

ところで、"11月3日"といえば偶然にも三池鉄道最初の区間(横須浜~宮浦坑)の開通日という記念日にあたります。このことを以前にまとめましたので、参考まで。

炭鉱電車「鉄道の日」

少し前までは「近代化遺産一斉公開日」として馴染みのある日でもあり、2025年以降も同時開催が期待できそうです。


新年の初投稿は軽いネタから🐱

9号(現:三井化学保管)、11号(現:ステーションゼロ)、12号(現:万田坑)の20トン電車は、三井化学時代には、20トン電車3台×電源車3両で一致していたので、常に電源車デ形とのペアの姿がデフォルトでした。いっそのこと、テンダーとして20トン電車の一部とした方が、税金対策にはお得なのではと思ったりもしましたが、実際には検査周期の違いでペアの組合せはその都度変化しています。おそらく、どちらかの検査時以外は連結を解くことがなかったのではと思います。
もちろん、20トン電車単機での稼働は可能ですが、この姿で仕業に就くのを見ることはありませんでした。ある日、宮浦車庫をいつものようにのぞいたところ、単機の9号電車がそろそろと車庫から出てきました。すぐに庫内に戻ってしまいましたが、なんか得した気分でした。たまたま相方となる電源車が検査中だったのでしょうね。