2024年9月15日日曜日

三池の絵葉書から③

マイコレクションから万田坑の古絵葉書🐱
末藤書店発行の三井三池炭礦萬田坑 MITSUI’S MANDA COLLIERY AT MIIKEです。”COLLIERY”はCOAL MINEと同義で、炭鉱のこと。末藤書店(末藤書画店とも)の詳細は不明ですが、三池炭鉱明治期の絵葉書を多く残しています。ただし、題材の年代的に大正期のものがないので、明治末年までに廃業したのではと推測しています。
この絵葉書は万田坑を北側から見ており、手前には現存する第二立坑、奥に第一立坑という構図です。万田坑の絵葉書は第一立坑を主題にした南西側が圧倒的に多いので、この点から貴重な映像資料です。絵葉書を細かく見ると、第二立坑櫓には足場が架かっていることと、巻上機室の建屋がない(巻上機らしきものは写っています)ことから、まだ建造途上の様子に見えます。第二立坑は1898(M31)3月開鑿着手、1908(M41)年3月操業開始。




線路は三池本線。複線路にみえますが、宮原~万田間の複線化は1908(M41)年7月運輸開始です。また、選炭場を線路が通り抜けていないように見えますが、当初の配線では選炭場北側に遷車台(トラバーサー)を設けて、炭車を振り分ける方法が取られていました。以上のことから、この絵葉書は1907~1908年頃の撮影ではないかと推測されます。

2023年1月より、選炭場跡には12号電車+デ1号と18号電車が保存されています。ストリートビューにて絵葉書と同じ構図を再現。そもそも廃線跡にストリートビューとは😹


選炭場の在所は現荒尾市(当初は荒尾村)、北面傍に市境があり絵葉書の撮影位置は現大牟田市(当時は駛馬村)となります。ストリートビューは保存車両の置かれる前の2015年モノですが、景色的には今ももまったく変わっていません。保存車両は荒尾市所有なので、荒尾市内に敷かれた50mほどのレイルにて動態保存(12号電車)されています。絵葉書でいえば、選炭場の向こう側ということになります。

なお、NPO炭鉱電車保存会(大牟田市)では、市境をこえた大牟田市内に線路を延長し、動態保存のエリアを拡大して新たな景観を造ることを提言しています。三池本線の復活ですね。

2024年9月11日水曜日

三池鉄道メモ①

単発的なネタをメモ、以降の課題資料とします。

三池鉄道の謎車輌について。
三池の客車といえば通勤輸送に用いられたコハ形・ホハ形はよく知られていますが、じつは明治期より1両の客車が在籍していました。『三池港務所沿革史』より「明治35年(*1902)に客車1両を製造せられ、社内見学視察者等の乗用に使用」とあります。竣工図表は添付されていないため、どのような客車であったのかは皆目不明で、どこで製造されたのかも分かりません。無論、写真も未発見です。1902(M35)年~1936(S11)年は1両が在籍、形式称号の改正があった1937(S12)年以降は”その他”の車輛に括られたようで、在籍については追跡できません。1902年製ということから”東洋一”の万田坑開坑(1902年11月操業開始-1903年3月開坑式)の見学者に対応したものと思われます。やんごとなき方々の乗車機会があるでしょうから、客室内もそれなりであったのだろうと想像するしかありません。

ところで、この客車(形式も車号も不明のままですが)、実際に使われた事例を探していたら、それらしい記事を見つけたので合わせて引用しておきます。
1926(T15)年10月21日~10月29日に石炭礦業連合会主催にて、会員による九州視察旅行が行われました。行程については清宮生「視察団に伍して」(*1)という記事にまとめられており、そこから気になる記述をいくつか拾い上げてみます。
                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                             
10月22日(二日目)枝光駅よりの貸切列車にて、17:16大牟田駅着(大牟田での宿泊地については記事無し)。

三池炭鉱視察は三日目になります。
10月23日(三日目)
今日は三池視察の日である。午前八時三池製作所に集合して製作所、製煉所、染料工業所と順次参観した

次の記述が気になる部分です。
午前十時、川端線より特別列車に便乗して萬田駅に着き、萬田坑外の設備を視る
文中にある”川端線”は聞きなれない名称ですが、宮浦駅より染料工業所側に分岐した引込線。ここで一行は”客車”に乗車したようです。宮原坑は車窓から眺めただけか。宮浦~万田間は1920(T9)年には電化されていますが、鉄道の記事は無し。

万田坑視察後、萬田駅より再び”客車”に乗車します。
再び、汽車にて大島駅に着、水洗場を視てから四ツ山坑に赴く
”大島駅”は、大島水洗場の操業に合わせ1926(T15)年5月に設置されたばかりでした。四ツ山駅の旧称です(正しくは大島駅と、初代二代目四ツ山駅は別駅)。四ツ山坑は大島駅からほど近い位置(二頭山の裏側)にあり、1923(T12)年に操業を始めた当時の最新鋭坑です。
”汽車”とあるので、蒸気機関車が客車を牽いた?

四ツ山坑からは自動車にて港倶楽部へ、午後の饗応のあと三池港の視察、午後二時半には三池港から乗船して、この夜は島原にて宿泊。
以下、視察旅行の行程に興味ある方は同記事に当たられたし。それにしても休養日(四日目)を除き、東は宇部(沖の山)から西は端島(高島)までひたすら陸路海路で巡っており、明治人のタフネスさには驚きます。

ちなみに視察団がどのような規模であったかというと(一日目名簿より)
会長 麻生太吉
副会長 松本健次郎
同 貝島太市
以下38名

おそらく、付き人や秘書も随伴(別行動だろうが)していたとすると結構な規模の御一行です。名士のみでも40名を超えるとなると、三池の”客車”はボギー車なのか、それとも鉄道省から客車を借り入れたのか、気になる人数ではあります。

(*1)『石炭時報 第1巻第8号』石炭鉱業連合会1926-11

2024年9月2日月曜日

デ1号電源車⑩

万田坑デ1号の車端部の装備を見てみます。まずは前位側から🐱
ところでどっちが前?外枠に書かれた丸数字(位置呼称)によれば、①と②がある浜側が前位となり、機器箱側は③と④なので後位です。ちなみにデ形以外の貨車についても浜側を前位としていました(機関車は車種によって異なります)。以下、装備品3点を取り上げます。


①標識灯

標識灯、すなわち尾灯1つが①位寄りに設けられています。現役時代は点灯していたシーンを見た記憶がありませんが、うれしいことに展示運転では灯されていました。まわりが明るいので、気付かれにくいのが難点。標識灯自体は20トン電車と同型のものに見えます。運転席妻面には”電源車標識灯”のスイッチがあります。




②ステップ

車端の①位寄りと②位寄りにステップが取り付けられています。黄色く塗られていて、かなり目立つパーツです。網抜けのステップはそれぞれ形態が異なり、①位側は四角、②位側は五角形でかつ外向きにひねる角度が付けられています。②位側は運転席のある側となりますが、20トン電車自体は運転席側にしかステップはなく角度があることも同様で、機関車に仕様を合わせたかたちです。なお、①位外枠には何か切り落とした痕跡があるので、①位側ステップは後付けかも知れません。



②位側ステップは運転席から操車掛の挙動が見易く、手すりも黄色く塗られているので原則的にはこちら使用なのかなと思って写真を見返しましたが、そうでもなかったです。そもそもステップ添乗の写真は意外なほど撮っていませんでした。コンテナ車の入線以降は、デ形側に貨車を連結するという入換パターンがほとんどなかったことも関係しているのかも。参考までに両ステップ添乗の写真を挙げておきます(1枚目は変則)。



③排障器

今回この記事を書いていて、デ1号に変化があることに気付きました🐱本来、前位床下に排障器(先端はゴム?)がありました。編成先頭になることも多かったデ形ならではの装備でしたが、現在のデ1号は失くしています。過去写真を探すと、2022(R4)年9月の保守運転最終日にはまだ装備していましたので、2023(R5)年1月の万田坑陸送の際に外されたのではと推測します。排障器はいずこへ・・・