2024年9月29日日曜日

三池鉄道メモ② 玉名線

単発ネタをメモ、以降の課題資料とします。
今回は玉名線の記事から🐱

原万田~平井間を結んだ玉名線(4.1キロ)は、通勤列車が走った路線として知られていますが、もとを辿れば”三井化学工業専用鉄道”として敷設された純然たる産業鉄道でした。通称、玉名専用鉄道。1944(S19)年の運輸開始以来、実質的に三井鉱山が運営していましたが、1961(S36)年10月三井鉱山に譲渡、玉名線となります。
1969(S44)年刊行の『荒尾近代史』(*1)より交通機関の章にて、玉名線に触れた記事がありましたので引用しましょう。なお、”炭鉱電車”という呼称を使っていることも注目されます。

昭和24(1949)年2月1日に開通した四ツ山、緑ヶ丘間の炭鉱電車は、緑ヶ丘に居住する一万名の三井系炭鉱並びに会社従業員とその家族の通勤、その他の弁に供せられているが無賃であるので、三井関係従業員とその家族以外の乗車は禁じられている

文中、”1949年2月1日開通”とありますが、これは路線の竣工開通日ではなく、平井駅まで通しで通勤列車が走った日付と思われます。三池港務所がまとめた年表によれば、三池港~平井間の通勤列車は以下の3段階を経て延長されています。

1948(S23)年5月大谷~西原間開始
1948(S23)年11月西原~三池港間開始
1949(S24)年2月大谷~平井間開始

刊行時点(1969)では、三池鉄道は”地方鉄道”として営業(1964~1973)していたので、誰でも乗車できたはずなのですが、文中では従業員及び家族のみの乗車が可としています。地元でも三井関係以外の住人は乗り難い雰囲気があったのか、勘繰ってしまいますね。無論、無賃ではありません。

通勤列車が走り始めたのは玉名専用鉄道時代ですが非電化での敷設でした。以下の記述から、当初は蒸気機関車が客車牽引していたことが分かります。これは貴重な資料となります。

この炭電は最初明治三五年式八号型蒸気機関車を用いていたが、昭和27(1952)年3月より、電気機関車に切替え、現在に及んでいる

”明治三五年式8号型”という何やら格式ばった形式で呼ばれていますが、これはH.K.Porter製の22トンクラスのことです。三池鉄道では、1902(M35)年から8~16号を同一形式で揃えて長年愛用されました。ポーター蒸機の牽く客車列車、残念ながら映像資料は未見ですが、4年に満たないわずかな運用期間でしたので、見つかれば大発見もの間違いないです。

(*1)荒尾市郷土資料作成委員会編 1969(S44)荒尾市教育委員会発行

2024年9月26日木曜日

デ1号電源車⑪

まだまだデ1号電源車を観察🐱
今回は、12号電車との連結側になる後位を見てみます。
すでに前位についてはデ1号電源車⑩としてまとめました。



3本のケーブルが存在感を放っています。デ1号(4位側)と12号(3位側)に赤-緑-黒のソケットが並び、プラグによってケーブルが結ばれています。デ1号にはソケットが2組並びますが、上段はケーブルを畳んだ時の電車側プラグの収納用です。これら機器は、おそらく三井化学(1997~)以降に更新されたものと思われ、原型ではジャンパ栓タイプの大柄なものでした。いずれも型番よりユタカ製作所(群馬県)の防水型コネクタで、赤と緑は高圧用のYH400シリーズ、黒は低圧用多芯のMYシリーズとなっています。ケーブル表記までは見ていませんでしたが、黒のみやや太くなっています。原型の色分けを踏襲しているならば、ケーブルそれぞれの役目は、赤(プラス)と緑(マイナス)が電源線、黒は制御線と思われます。
”通電中”の吊り札とチェーンは万田展示以降の追加で、もちろん現役時代にはありませんでした。


連結器を見てみます。デ1号の後位側の解放装置が下作用式となっているのが特徴です。デ1号の種車ハコ1号無蓋車は上作用式と推測されるので、デ形改造時に取替えられたと思われます。解放テコがテコ止にてインシュロックでがっちり固定されているのは悪戯防止のためでしょうか、むろん展示以降の処置です。なお、12号電車の解放テコの上揚釣が外されているのは現役時代から。基本的に検査時以外は連結を解くことがないためだと思います。

ところで今回、写真を探していて気付いたのですが、エアーホース(直通ブレーキなので直通管)のアングルコックが閉じられています。展示運転中も”閉”だったので、すなわちデ1号のエアーブレーキは使用していませんでした。12号電車の制動力で充分と判断されたようです。



4位側車端には、ステップと握り棒が設けられています。いずれも黄色く塗られていて目立ちますが、実際にこのステップに添乗している場面は見たことがありません。車台にあがる足掛けは、側ブレーキのステップを兼ねており、大き目に作られています。



3位側の車端にはステップはありませんが、車台にあがるための簡易な足掛けが側面にあります。
機器箱から車端側に出っ張るかたちで箱モノがありますが、実はここに何の機器が収まっているのかよく分かりません。機器箱とは仕切られている、点検蓋がない、通風孔があることが確認できます。両側面にフックがあるので、外箱は上から覆い被さっているように見えます。

2024年9月19日木曜日

三池鉄道の炭車略史①

この記事は『HP炭鉄』からのサルベージ&リペアになります。


三池鉄道では石炭車を"炭車"と称しました。まず炭車略史①として、1891(M24)年の三池鉄道開通~1940年代迄をまとめます。この50年間を一言でいえば、三池形炭車の時代となると思います。4トン-8トン-16トンという倍数的に大型化したオリジナルな炭車を新製し、世代交代を果たしました。


4トン積炭車の登場(1891(M24)~)

1891(M24)年12月の鉄道運転開始から炭車を用いた石炭輸送が始まります。横須船積場~七浦坑間を開通した際、最初に採用した炭車は4トン炭車でした。「最初の炭車は木製4トン、底に2ヶの開閉戸があって、船積みの際にこれを開いて石炭を落下させる装置である(*文献1)とあります。

三池炭車の特徴として底開きホッパーカーということが挙げられます。”底開き”とは炭箱の底扉によってレイルの間に石炭を卸す仕組みです。底開きは筑豊炭田を控えた筑豊興業鉄道も採用し、九州地方の石炭車の標準仕様として普及しましたが、三池鉄道との技術的な繋がりについて言及した文献は見つかりませんでした。多くの鉄道史文献では、1893(M26)年筑豊興業鉄道が採用した6トン積み鉄製石炭車(英国ラムソン&レピーヤ製)を嚆矢としており、一方、鉱山史からは三池炭車を嚆矢とする記述が見られること(*1)は注目すべきだと思います。

以降、単位4トンは三池貨車の基準になりました。4トン炭車1両が馬車軌道の鉱車(0.44トン)の9車分(およそ2列車分)になり、輸送力を桁違いにアップさせました。また”船積”とあるように、底開きという炭車構造と、横須船積場の「高架桟橋」との組み合わせによって、船積みの時間短縮と省力化が達成されました。たとえば70トンを船積する場合、「170の小炭車と30馬匹を要し、1時間以上を費せしも、汽車用炭車は僅か18台、時間12分を以て積み移し得る(*文献1)と簡潔に比較されています。三池鉄道では、高架桟橋から自然落下によって炭車から直に船積する方法は横須船積場に見られ、三池港では船積機を介した機械荷役へと移りましたが、高架桟橋は三池港貯炭場の施設としてより大規模に用いられました。

4トン炭車は1890(M23)年中から製造が開始され、鉄道開通時には100両が用意されといいます。その後、1901(M34)年までに総数324両(総荷重1296トン)まで増備されました。時代的には万田坑開鉱や、三池港築港工事の開始などが区切りとなりました。4トン炭車は、およそ明治年間の主力炭車でしたが、大正半ば過ぎから両数を減らし、使用廃止は1933(S8)年となりました。


8トン積炭車の登場(1905(M38)~)

8トン炭車は、1905(M38)年5月まず25両が登場し(*文献2)、1930(S5)年までの長期間にわたり合計485両(総荷重3880トン)が新製増備されました。特徴として、4トン車の2車分に大型化されたこと、鉄製車ということが挙げられます。また製造にあたって鉄道車輌メーカーが参加しています。鉄製で耐久性があったことから長期にわたって用いられました。大正時代はおおむね、4トン・8トン車の時代といえ、4トン車と混用された編成も見られます。また戦後には炭箱嵩上げによって多くが10トン積車セ形に改造されました。セヤ形としては1960年代まで現役だったと思われます(*文献3)
8トン車は三池港に対応した大型炭車と位置づけることが出来ます。三池鉄道開通当初、1892(M25)年の出炭量は46万トンでしたが、勝立坑、宮原坑、万田坑の開坑によって、1907(M40)年には148万トンと3倍増となりました。この間、4トン炭車の約250両の増備や、本線の中央区間(宮浦坑~七浦坑)の複線化が図られていますが、官営時代以来の最大懸案(大牟田港から口之津港への中継航送)は、三池港築港による決着を待たなくてはなりませんでした。三池港の開港とともに、宮浦~三池港という本線の大部分が複線化され、あわせて重軌条化が図られました。
8トンが新単位になったことは、三池港の船渠岸壁に3台備えられた石炭船積機(ダンクロ・ローダー)のバケッツ容量が8トンということからもうかがえます。船渠岸壁に平行して設けられた四ツ山貯炭場から、15トン電車牽引の8トン車8両という編成で船積機に連続送炭されました。


16トン積炭車の登場(1934(S9)~)

16トン炭車は、8トン炭車をさらに2車分大型化し、三池形炭車の完成型となった形式です。1934(S9)~1938(S13)年の短期間の新製増備ながら、合計240両新造。総荷重3840トンは4トン車と同じ輸送力を確保しています。世代的には7トン車の代替えとなりますが、地上設備の改良(および旧坑の閉坑)により大型炭車の導入が可能になりました。
8トン車の2車分ということは、炭箱の構造にも現れていて、中央仕切りによって8トンづつの2室に分かれています(それぞれに底扉は2つ)。これは先述した、船積機の規格に沿ったものと思われます。形態的にも類似車輌がいない、車高を抑えた(その分、車長が長い)、独特なスタイルをしています。16トン炭車は平成時代まで生き残りました。


7トン炭車の購入(1913(T2)~)

7トン炭車は、「明治41(1908)年6月から初めて宮浦立坑で土砂充填が開始されるに至って、浜駅構内の殻捨から焚殻を炭車に積んで宮浦に輸送されるようになり、後の充填列車の魁となった。…その後、充填列車整備のこととなり、国有鉄道の中古車118両を大正2、3年にかけて購入、4年8月大浦採鉱所の土砂積に使用(文献1)とあり、このことを鉄道統計から補うと、大正2(1913)年版に底開き石炭車45両、大正3(1914)年版にも同型73両が三井鉱山譲渡と記され、記事と一致しています。
当時、鉄道院では石炭車の増トン改造(9トン、13トン化)の最中で、その一方で改造不適格となった石炭車(全鉄製車以外)を民間に放出しており、これらを三池にて譲受したものです。7トン車は鉄製台枠に木製炭箱を載せた木鉄混製車で、1934(S9)年まで使用されました。8トン車などと混成の編成を組んだ写真もあるので、石炭車として使用されることも多かったと思われます。


(*1)例えば『鉱山発達史』(1900(M33)年)など。
(*2)製造に関しては不詳点が多いが、三池鉱業所総年譜によれば1890(M23)年1月製造着手。
(*文献1)『三井鉱山五十年史稿本』より。
(*文献2) 『三池炭鉱専用鉄道概要』より。
(*文献3)『鉄道ファン21号』1963-3より。1962(S37)年撮影としてセヤ2047号が目撃されている。

2024年9月15日日曜日

三池の絵葉書から③ 万田駅

マイコレクションから万田坑の古絵葉書🐱
末藤書店発行の三井三池炭礦萬田坑 MITSUI’S MANDA COLLIERY AT MIIKEです。”COLLIERY”はCOAL MINEと同義で、炭鉱のこと。末藤書店(末藤書画店とも)の詳細は不明ですが、三池炭鉱明治期の絵葉書を多く残しています。ただし、題材の年代的に大正期のものがないので、明治末年までに廃業したのではと推測しています。
この絵葉書は万田坑を北側から見ており、手前には現存する第二立坑、奥に第一立坑という構図です。万田坑の絵葉書は第一立坑を主題にした南西側が圧倒的に多いので、この点から貴重な映像資料です。絵葉書を細かく見ると、第二立坑櫓には足場が架かっていることと、巻上機室の建屋がない(巻上機らしきものは写っています)ことから、まだ建造途上の様子に見えます。第二立坑は1898(M31)3月開鑿着手、1908(M41)年3月操業開始。




線路は三池本線。複線路にみえますが、宮原~万田間の複線化は1908(M41)年7月運輸開始です。また、選炭場を線路が通り抜けていないように見えますが、当初の配線では選炭場北側に遷車台(トラバーサー)を設けて、炭車を振り分ける方法が取られていました。以上のことから、この絵葉書は1907~1908年頃の撮影ではないかと推測されます。

2023年1月より、選炭場跡には12号電車+デ1号と18号電車が保存されています。ストリートビューにて絵葉書と同じ構図を再現。そもそも廃線跡にストリートビューとは😹


選炭場の在所は現荒尾市(当初は荒尾村)、北面傍に市境があり絵葉書の撮影位置は現大牟田市(当時は駛馬村)となります。ストリートビューは保存車両の置かれる前の2015年モノですが、景色的には今ももまったく変わっていません。保存車両は荒尾市所有なので、荒尾市内に敷かれた50mほどのレイルにて動態保存(12号電車)されています。絵葉書でいえば、選炭場の向こう側ということになります。

なお、NPO炭鉱電車保存会(大牟田市)では、市境をこえた大牟田市内に線路を延長し、動態保存のエリアを拡大して新たな景観を造ることを提言しています。三池本線の復活ですね。

2024年9月11日水曜日

三池鉄道メモ① 視察客車

単発的なネタをメモ、以降の課題資料とします。

三池鉄道の謎車輌について。
三池の客車といえば通勤輸送に用いられたコハ形・ホハ形はよく知られていますが、じつは明治期より1両の客車が在籍していました。『三池港務所沿革史』より「明治35年(*1902)に客車1両を製造せられ、社内見学視察者等の乗用に使用」とあります。竣工図表は添付されていないため、どのような客車であったのかは皆目不明で、どこで製造されたのかも分かりません。無論、写真も未発見です。1902(M35)年~1936(S11)年は1両が在籍、形式称号の改正があった1937(S12)年以降は”その他”の車輛に括られたようで、在籍については追跡できません。1902年製ということから”東洋一”の万田坑開坑(1902年11月操業開始-1903年3月開坑式)の見学者に対応したものと思われます。やんごとなき方々の乗車機会があるでしょうから、客室内もそれなりであったのだろうと想像するしかありません。

ところで、この客車(形式も車号も不明のままですが)、実際に使われた事例を探していたら、それらしい記事を見つけたので合わせて引用しておきます。
1926(T15)年10月21日~10月29日に石炭礦業連合会主催にて、会員による九州視察旅行が行われました。行程については清宮生「視察団に伍して」(*1)という記事にまとめられており、そこから気になる記述をいくつか拾い上げてみます。
                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                             
10月22日(二日目)枝光駅よりの貸切列車にて、17:16大牟田駅着(大牟田での宿泊地については記事無し)。

三池炭鉱視察は三日目になります。
10月23日(三日目)
今日は三池視察の日である。午前八時三池製作所に集合して製作所、製煉所、染料工業所と順次参観した

次の記述が気になる部分です。
午前十時、川端線より特別列車に便乗して萬田駅に着き、萬田坑外の設備を視る
文中にある”川端線”は聞きなれない名称ですが、宮浦駅より染料工業所側に分岐した引込線。ここで一行は”客車”に乗車したようです。宮原坑は車窓から眺めただけか。宮浦~万田間は1920(T9)年には電化されていますが、鉄道の記事は無し。

万田坑視察後、萬田駅より再び”客車”に乗車します。
再び、汽車にて大島駅に着、水洗場を視てから四ツ山坑に赴く
”大島駅”は、大島水洗場の操業に合わせ1926(T15)年5月に設置されたばかりでした。四ツ山駅の旧称です(正しくは大島駅と、初代二代目四ツ山駅は別駅)。四ツ山坑は大島駅からほど近い位置(二頭山の裏側)にあり、1923(T12)年に操業を始めた当時の最新鋭坑です。
”汽車”とあるので、蒸気機関車が客車を牽いた?

四ツ山坑からは自動車にて港倶楽部へ、午後の饗応のあと三池港の視察、午後二時半には三池港から乗船して、この夜は島原にて宿泊。
以下、視察旅行の行程に興味ある方は同記事に当たられたし。それにしても休養日(四日目)を除き、東は宇部(沖の山)から西は端島(高島)までひたすら陸路海路で巡っており、明治人のタフネスさには驚きます。

ちなみに視察団がどのような規模であったかというと(一日目の名簿より)
会長 麻生太吉
副会長 松本健次郎
同 貝島太市
以下38名

おそらく、付き人や秘書も随伴(別行動だろうが)していたとすると結構な規模の御一行です。名士のみでも40名を超えるとなると、三池の”客車”はボギー車なのか、それとも鉄道省から客車を借り入れたのか、気になる人数ではあります。

(*1)『石炭時報 第1巻第8号』石炭鉱業連合会1926-11

2024年9月2日月曜日

デ1号電源車⑩

万田坑デ1号の車端部の装備を見てみます。まずは前位側から🐱
ところでどっちが前?外枠に書かれた丸数字(位置呼称)によれば、①と②がある浜側が前位となり、機器箱側は③と④なので後位です。ちなみにデ形以外の貨車についても浜側を前位としていました(機関車は車種によって異なります)。以下、装備品3点を取り上げます。


①標識灯

標識灯、すなわち尾灯1つが①位寄りに設けられています。現役時代は点灯していたシーンを見た記憶がありませんが、うれしいことに展示運転では灯されていました。まわりが明るいので、気付かれにくいのが難点。標識灯自体は20トン電車と同型のものに見えます。運転席妻面には”電源車標識灯”のスイッチがあります。




②ステップ

車端の①位寄りと②位寄りにステップが取り付けられています。黄色く塗られていて、かなり目立つパーツです。網抜けのステップはそれぞれ形態が異なり、①位側は四角、②位側は五角形でかつ外向きにひねる角度が付けられています。②位側は運転席のある側となりますが、20トン電車自体は運転席側にしかステップはなく角度があることも同様で、機関車に仕様を合わせたかたちです。なお、①位外枠には何か切り落とした痕跡があるので、①位側ステップは後付けかも知れません。



②位側ステップは運転席から操車掛の挙動が見易く、手すりも黄色く塗られているので原則的にはこちら使用なのかなと思って写真を見返しましたが、そうでもなかったです。そもそもステップ添乗の写真は意外なほど撮っていませんでした。コンテナ車の入線以降は、デ形側に貨車を連結するという入換パターンがほとんどなかったことも関係しているのかも。参考までに両ステップ添乗の写真を挙げておきます(1枚目は変則)。



③排障器

今回この記事を書いていて、デ1号に変化があることに気付きました🐱本来、前位床下に排障器(先端はゴム?)がありました。編成先頭になることも多かったデ形ならではの装備でしたが、現在のデ1号は失くしています。過去写真を探すと、2022(R4)年9月の保守運転最終日にはまだ装備していましたので、2023(R5)年1月の万田坑陸送の際に外されたのではと推測します。排障器はいずこへ・・・