2025年4月25日金曜日

三池の絵葉書から⑧三池港

マイコレクションから今回は三池港の古絵葉書🐱
米国船DIX号へ、船渠岸壁の”三池式快速船積機(ダンクロ・ローダー)”による石炭積込の光景になりますが、組写真として2枚を並べてみました。
「三井三池米国御用船ヂックス載炭 LOADING OF COAL AMERICAN STEAMERSHIP AT MIIKE(山田商店製)」と、「三井三池港米国御用船ヂックス載炭 COALING THE U.S.A. TRANSPORT"DIX" AT PORT MIIKE(津村写YS)」です。後者も"YS"とあることから、山田商店の発行と思われます。



ただ、DIX号は2度来航(*1)(*2)していますので、これら絵葉書が同時に撮られたものなのか確証はありません。何となくですが、歓迎の雰囲気から最初の入港(1917(T6)年)の時という気がします。物見遊山の老若男女が出向いていますが、子守りの女性や頬かむりの男性など、近隣からチョッと見に来たといった長閑な風情。



絵葉書中央に見える船積機(ダンクロ・ローダー)については別途取り上げる機会がありますので、詳細は後日に改めて。石炭船積のフローとしては、石炭卸し線からの石炭はバケットに落とされ、そのバケットが船積機のガイドを上下することによって、シュートを通じて船積されます(このような船積機の構造をスキップホイストといいます)。1枚目の絵葉書では、ちょうどバケットがシュート位置まで牽き上げられたシーンになります。

数多い船渠岸壁の絵葉書として、ほかに見られない珍しい光景と思えるのは、2枚とも石炭卸し線に蒸気機関車(サドルタンク機のようです)が使われていることです。荷卸し線は電化されており、本来は15トン電車の持ち場です。電動化されている船積機とともに”オール電化”が売りの船渠岸壁ですので、坑口から直接到着した石炭列車かも知れません。

せっかくなので、DIX号について。
DIX号の船首には"U.S.ARMY TRANSPORT DIX"とあります。「米国陸軍輸送隊 DIX号」となるでしょうか。これで検索を掛けると、いくつかの画像とデータがヒットします。以下、Wikimedia Commonsより船歴を簡単に引用しておきます。
1892年 Samoa号(排水量7200トン)として英国にて竣工
1900年米国需品局が購入、陸軍輸送隊に配属
1901年DIX号に改名
1922年売却、Grace Dollarに改名
1928年神戸にて廃船
ちなみに船尾に書かれているのは"QUATERMASTER DEPARTMENT”と思われ 、これは所属部署の「アメリカ陸軍需品科」になります。

(*1)『年表と写真でみる大牟田市の100年』(2017大牟田市市史編さん委員会)によれば、1917(T6)年6月、および1923(T12)年12月に入港とあります。
(*2)『海商通報』(海商社1909(M42)年7月)には次の記事が見られます。「米国御用船の三池港寄港に就いて/来る8月米国御用船ヂツリス号が、長崎に寄港することなく三池港に於いて石炭を搭載することは既に確定せし所なるが、さらに聴く所によれば日本に於ける米国御用船燃料石炭受負事業は過日の競争入札に於いて三井物産会社の手に帰したるより、今後米国御用船は長崎に寄港することなく、十中の八九は多分三池に寄港し同所に於いて三池炭を搭載するに至る」。”ヂツリス号”はDIX号のカタカナ読みのようにも思えますが、そうなると寄港年はずっと早くなります。

2025年4月20日日曜日

電源車デ形について⑤

東芝社報「三井鉱山三池港務所電源車 新設計蓄電池を搭載」(*1)より5回目、今回は記事の紹介ではなく、”ある疑問”を考察します。

まずは同記事より一枚、デ2号と20トン電車(号車は不明)の写真です。この写真、どことなく違和感があるのに気付かれるでしょうか。じつは電源車と電車の位置関係が、見慣れた姿とは逆になっています。

「三井鉱山三池港務所電源車 新設計蓄電池を搭載」(*1)より引用

たまたま😸この向きで撮られた可能性があるかもと疑い、同年代の『東芝レビュー』を見返してみたところ、もうひとつ写真が見つかりました。「三井鉱山三池港務所電気機関車用電源車」(*2)と題した短い記事ですが、ここでも電源車と電車の位置は逆になっています。なおこの写真、電源車に車号や社章がなく、車台にケーブルが這っているので試験中なのかもしれません。

「昭和37年における東芝技術の成果/三井鉱山三池港務所電気機関車用電源車」(*2)より引用

言うまでもないですが、見慣れているのは、電源車の後位(機器箱側)と20トン電車の後位(浜側)がケーブルで結ばれた姿です。お互いの電気連結栓もこの組み合わせ一択しか持ちません。


以下、はっきりとした資料がないため、あくまで推論となりますが、オリジナルな仕様としては、電源車は20トン電車の前後どちら側でも使用が可能だったのではないかと考えています。すなわち、”電源車・電車の両車とも前後に電気連結栓を備えていた”ということになります。以下、裏付けとなる物証を探してみます。

まずは電源車側から。写真はデ4号の前位をみたものですが、端梁の2位寄りに丸穴跡が3つ並んでいます。これは電気連結栓の取り付け跡ではないかと睨んでいます。


下の写真は電源車(後位側)の連結栓(旧タイプ)の取り付け方法です。立型の筒はケーブル収納の際の栓受け。前位側では連結器の解放テコが干渉しそうですが、元々、連結器は下作用式(上作用式には後年改造)でした。


電源車対応であった20トン電車(9号、11~12号)を観察すると、万田坑に保存された12号電車のみ、1位寄り(港側)のボンネットに連結栓の痕跡が残っています。前後は対角ではなく、対称の位置関係となるのは電源車も同様です。
なお、連結栓を避けていた標識灯が上にずれたままになっているのは12号の特徴。


参考までに、下の写真は12号電車3位寄りの通常の連結栓(旧タイプ)です。現在はコンパクトになりましたが、もともとはボンネットに直接取り付けられていました。


現在はステーションゼロに保存されている11号電車には、12号のような痕跡は確認できません。ところが『私鉄電気機関車ガイドブック』(*3)には前位側に電気連結栓がならんだ11号電車が掲載されています。資料としてはこれが決定的な物証となるでしょう。撮影日は1974(S49)年2月です。
なお、牽引される電源車の車号は不鮮明ですが、後位(機器箱側)床下に排障器が見えています。後位側が先頭になる場合があることの物証となります。

『私鉄電気機関車ガイドブック西日本編』より引用(*3)

以上、電源車・20トン電車の両頭仕様はほぼ間違いないと思うのですが、最初に述べたように明確に言及した資料が見つかりませんでした(*4)。また、すべての車両に共通していたのか、あるいは一部に限定されていたのかはよく分かりません。
はたして電源車を繋ぐ位置については、前後どちらかに特段のメリットがあるのか、素人目にみても??です。電源車の登場当初は、連結位置を変えなければならない使用状況を想定していたかもしれませんが、部品数が増えてしまうことは保守的にはデメリットになるのではないかと思います。
おそらくは、ある時期に連結方向が固定され、不要となった電気連結栓が撤去されたと思われるのですが、電源車電車双方ともそれらしい記事が見つからないのが不思議といえば不思議。


(*1)鵜沢正治・山司房太郎「三井鉱山三池港務所電源車 新設計蓄電池を搭載」『東芝レビュー』1963(S38)年10月 東京芝浦電気発行
(*2)『東芝レビュー』1963(S38)年3月 東京芝浦電気発行
(*3)杉田肇著 誠文堂新光社1977
(*4)間接的な言及となるが、11号電車の1967(S42)年2月の修繕記事に1位側(→前位)に電源車を連結した場合に電流計が指示しないので充電用メーンケーブル配線替えをおこなったとの記述がみられる。

2025年4月6日日曜日

三池の絵葉書から⑦ 四ツ山駅

マイコレクションから、今回は四ツ山坑の絵葉書🐱「北方より見たる四ツ山坑 Yotsuyama mine」山田屋本店撮影です。四ツ山坑絵葉書は東西南北の視点から豊富に発行されましたので、何度か取り上げていくことになるでしょう。

四ツ山坑は、揚炭坑口としては万田坑に次いで開鑿されました。第一立坑が1918(T7)年に開鑿に着手され1920(T9)年に着炭、1923(T12)年3月より操業を開始しています。『鉱業所沿革史』によれば、開坑の理由および目的として「主として海底の採炭および入気坑として三池港南方四ツ山の西麓海岸に新しく立坑を開鑿することとなったのが四ツ山立坑である」とあります。万田・宮浦の両坑道が西へと延びるつれて、万田坑は大断層にぶつかったこと、また宮浦坑については坑道距離が延びて、坑内環境の悪化により採炭効率が悪化していたこともあり、当時の海岸線ぎりぎりの場所に新規に開鑿されました。

絵葉書の中央に聳えるのは四ツ山第一立坑、坑口の直上に巻揚機を据えた立坑櫓は”タワーマシン(Tower Machine)”型と呼ばれます。鉄筋コンクリート製の櫓は152フィート10インチ(約47m)の高さがありました。四ツ山坑のシンボルとなる建造物です。絵葉書では分かり難いのですが、右手はすぐに海岸線、左手に少しだけ見える斜面は二頭山(四ツ山)の山裾です。海岸は選炭場からのボタ(硬)捨て場として次第に埋め立てられて、大島貯炭場や四ツ山社宅となりました。
ちなみに万田坑のような地上に巻揚機を設置したタイプは”グランドマシン(Grand Machine)”型です。絵葉書では第一坑に隠れていますが、第二立坑はグランドマシン型となっています。


写真は北側からの撮影なので、三池港船渠を背にして線路は手前が四山支線の終端側になります。四山支線は1923(T12)年3月開通、電化竣工も同日としており、これは四ツ山坑の開坑日と期日を合わせています。『鉱業所沿革史』に「鉄道の連絡少しく不便なり」と記されているように、 三池本線からの分岐線となっており、選炭場近くに四ツ山駅を設置しました。絵葉書では選炭場の向こう側に駅務所が設けられています。


絵葉書からは離れますが、三池鉄道には四ツ山駅を名乗った駅は3回登場しています。以下に簡単に整理してみました。
①四ツ山駅(Ⅰ)→1920(T9)年5月港駅に改称
②四ツ山坑開坑にともない1923(T12)年3月四ツ山駅(Ⅱ)を設置→1954(S29)年1月廃止
③1926(T15)年5月大島駅を設置→四ツ山駅(Ⅲ)

四山支線の四ツ山駅(Ⅱ)から、三池本線の四ツ山駅(Ⅲ)(←旧大島駅?)の改称時期が不明です。