2024年8月25日日曜日

三池の絵葉書から②


マイコレクションから宮浦坑の古絵葉書🐱
江崎文化堂(大牟田市有明町)発行の「最も新らしき大牟田名所絵葉書」組より、「三池名勝(VIEWS OF MIIKE) 宮の浦坑」です。ご覧のように、この名勝シリーズは鮮明な印刷でコレクションの愉しみとなります。撮影対象の登場時期から昭和10年前後の三池風景と推測しますが、三池の絵葉書は明治~大正期のものが大部分なので、昭和戦前期の映像資料として貴重です。

宮浦坑は官営三池末期の1888(M21)年3月に第一立坑が竣工。木造櫓のため、絵葉書では黒っぽく写っています。その後、第二立坑(排気坑)が1919(T8)年6月に着炭、大斜坑は1923(T12)年11月に貫通しました。第一と第二坑がそれぞれ1947年1951年に閉坑したあとも大斜坑が主力坑口として操業しましたが、採炭区域が海底炭層に移ったことにより1969(S44)年1月に三川坑に統合され、明治以来の歴史を閉じました。なお宮浦坑の閉坑により、馬渡・勝立地区からの鉱員輸送を担った勝立線(宮浦~東谷)が廃止されました。

宮浦坑の跡地は、一部が宮浦石炭記念公園となっています。絵葉書にも見える汽缶場煙突をシンボルに大斜坑坑口跡、第一坑基礎跡などの坑外施設、および坑内機械が展示されています。公園以外の跡地は工場敷地に転用されたたため、遺構らしきものは残っていません。大斜坑曳揚機室は1990年頃までは残っていたと記憶しますが、あまり記録できないまま無くなってしまいました。



宮浦坑の足元にみえる宮浦操車場の車両に注目してみましょう。
左側に見える蒸気機関車は、おそらくポーター製のサドルタンク機、8~16号の大所帯をかまえ、三池を代表する蒸気機関車です。一方、右側には20トン電車が貨物列車を牽いていますが、車体拡幅前の姿で、ボンネット先端のヘッドランプが見えています。港~宮浦間の電化は1920(T9)年10月、宮浦~浜間も1933(S8)年11月に完成していますが、染料工場等の入換用として蒸気機関車が久しく活躍しました。宮浦駅の無煙化(最後の蒸気機関車)は、じつに1963(S38)年の電源車デ形の登場まで俟たなくてはなりません。

20トン電車がひく貨物列車は、前2両は無蓋車(大型車はハロ形ぽい)、以降は石炭車が5両繋がっています。4両はセヤ形および新セヤ形(いずれも8トン積み)ですが、左から2両目だけは側柱が見えるので7トン積み車(イ形)のようです。7トン車は鉄製台枠に木製の炭箱を載せた石炭車(もとは払い下げ)ですが、1934(S9)年に全廃されていますので、絵葉書の撮影時期のヒントとなります。
蒸気機関車の後ろに並ぶのは無側車(平台車)といわれる貨車で、ヒナ・ヒヤ形といった各形式、右隅の選炭場付近にはセヤ形が密集しています。蒸機・電機と宮浦3坑が同時に写った映像というのは実はとても珍しいです。三池絵葉書のなかでは比較的安価に流通しているので、コレクションにお薦めの一葉。

2024年8月3日土曜日

電源車デ形について③


東芝社報「三井鉱山三池港務所電源車 新設計蓄電池を搭載」(*1)より、電源車デ形についての3回目になります。タイトルに”新設計蓄電池”とあるように、メインテーマはあくまで蓄電池としています。当然ながら専門的な内容となっていますので、わたしには・・・さっぱりな内容なので、興味ある方はお読みいただければと思います。

すでに現状(デ1号)の蓄電池と電池箱は取り上げました。
デ1号電源車⑨

下記写真は文献(*1)より引用、蓄電池(型式VGKM-300型)および電池箱の外観になります。蓄電池は12Vのモノブロック構造(電池箱1つに4ブロックで48V)、天面に立つ白い筒状のものは自動保液器(精製水を自動補給)と防爆形排気栓で、1ブロックに6個付いています。自動保液器は現状では無くなった機器だと思います。”300”は蓄電池容量(300Ah)で、これは現状の2/3ほどでした。


電池箱は現状のものと大差ありません。天蓋の止め具は無くなりましたが、新たに両脇に把手が付きました。電池箱を結ぶ連結栓は小型のものに交換されました。


鉛電池の寿命は一般的には15年前後(充放電のサイクル数や過充電・過放電等による劣化要因に左右される)とされるので、おそらく3回ほどは蓄電池交換がされたのではと推測されます。デ1号が保存車両に選定されたのも、蓄電池の経年数が短かったためと聞きました。


(*1)鵜沢正治・山司房太郎「三井鉱山三池港務所電源車 新設計蓄電池を搭載」『東芝レビュー1963(S38)年10月号』東京芝浦電気発行